ゴフトグーイェ・タマッドンハー

留学生としてイランにやってきてから10年以上。イランの人々とのあれこれや、イランで見たこと考えたことなど。

 今日はイラン暦オルディーベヘシュト月10日、イスラーム・ヒジュラ暦ラビー・アル=サーニー月12日、西暦4月30日

 今日は、ペルシア湾の日です。

 ペルシア湾というと、炎を吹き上げる油井の沢山ある石油の産地であり、それ故にまた紛争の地でもありました。
 ペルシア湾沿岸を歩いていると、「ポルトガル城塞」「オランダ城塞」といった城塞跡が沢山あることに気がつきます。いわゆる大航海時代以後、ヨーロッパがイランに進出すべく軍を派遣し、城塞を築き、そこに立て籠もっていたという場所です。オスマン・トルコやウズベク、更にはロシアの南下政策という北からの圧力に、南からのポルトガルと、イランは昔から大変だったんだなあとしみじみしてしまう場所の一つです。

 そんなペルシア湾にちなんだ日が何故わざわざ設けられているのかというと、このところ、「ペルシア湾」という呼び名に関する危機感が高まっているからだと思われます。イランにも日本海と同じく「呼称問題」が存在しているからです。

 テヘランからイランのシーア派の本拠地ゴムへ向かうオートバーンに向かう道路が「ペルシア湾通り」いう名前に変わってしまったほど、イランは「ペルシア湾( Persian Gulf)」という呼称にこだわります。

 ヨーロッパがいわゆる中東に進出してきた時代から、この細長い湾は「ペルシア湾」という名前でヨーロッパに知られてきました。まあ、その当時、湾を取り囲む地域でイランが最も突出していたからだと思うのですが、それ以後「ペルシア湾」と呼ばれ続けてきたのです。

 ところが、1960年代に入って、石油という武器を振りかざしたアラブ人たちが、イランの対岸から「ここはペルシア湾ではなくてアラビア湾だ」と主張し始めたのです。
 で、ナショナルジオクラフィク社の世界地図で「ペルシア湾」と「アラビア湾」が併記されたことで危機感を抱いたイラン政府が、「ここは昔から今も未来まで『ペルシア湾』だ」と主張するために、この「ペルシア湾の日」が設けられたのです。

 最近は、英語ではペルシア湾を「The Gulf」と表記することも多いようですが、イランはこれも認めません。
 以前、通訳の仕事である機関を訪れたときのことです。
 資料として渡した英語の文書に、「The Gulf」とあったことが気に入らないと言って、大騒ぎになったことがありました。英語でそう言うじゃないですかというこちらの言葉には全く耳を貸さず、「これは大きな間違いである。ペルシア湾と書いていない文書など受け取ることはできない」というようなことまで言われ、どうなることかと途方に暮れたものでした。

 日本でも、韓国が「日本海というのはけしからん」と日本海という呼称について突っかかってきているそうですが、こうした問題を見る度に、どんな呼称でも、国際的にそちらが広く使われているのならそちらを使って、自国では自国が使いたい呼称を使えば良いのでは?と思わないでもありません。

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 仕事や買い物などで外出する度に雨に降られてしまうのは何故なのでしょう。
 仕事先や店を出て数歩も歩かないうちにぽつぽつと降り始め、雷を伴った土砂降りに、というパターンが何度も続き、ちょっとうんざりです。

 日本から戻ってきて三週間が経ちましたが、あちこちで言われるのが、「300は見た?」です。
 アメリカで公開された映画『300』が古代ペルシア人を醜悪に描いているのはイランに対する侮辱だと、イランの大統領閣下などが抗議声明を出したのが、私がまだ日本滞在中のことでした。
 友人などからのメールでは、イランではノウルーズ休み中でもあるし、それほどの大騒ぎにはなっていないよ、ということだったのですが、イランに戻ってみたらあちこちでこの映画についての話を聞くのでちょっと驚きでした。
 映画を見た人は「これは酷い」と顔をしかめ、まだ見ていない人は「どんな感じ?」と評価を求めるといった様子で、先日はとうとう外国語学部内での上映会まで行われたとか。
 私も友人の家で一部を見たのですが、まあなんというか、「はあ、さいですか。時代考証やらなにやらが全くなっていないね」という感想しか出てきませんでした。

 ちょっと思ったのが、「イラン政府などが騒がなかったら、これほどに注目されることもなく、DVDやVCDを買う人もそんなにはいないアメリカ製のB級映画というところで終わったのでは?」ということでした。
 イランでは以前にも、『マールムーラク』という映画に対して「ルーハーニー(イスラーム法学者)をばかにしている」という圧力をかけて、映画館が自主的に上映を取りやめるようにしたことがありました。この時、もともと面白い映画と評価が高かったこともありますが、「へえ〜〜そんなことになるなんてどんな映画なんだろう」とかえって人々の興味を煽る結果となり、違法コピーVCDがあちこちで飛ぶように売れました。
 それを思い出し、友人などにそう話してみたところ、「そうかもね」と同意してくれる人がほとんどでした。
 以前、普段どのような映画を見ますか、というアンケート調査の協力をしたことがあるのですが、アメリカ映画や歴史を扱った映画は意外と人気がなかったということもあります。

 もしかすると、イラン国民にこの映画を見てもらい、アメリカに対する怒りをかき立てさせて、「反アメリカ」意識を高めようという大統領閣下の深謀遠慮だったのかもしれないね、とはある知人の言ですが、大統領閣下はそこまでは考えていなかったんじゃないのかなあという感じがするなあというのが正直なところです。

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 イラン暦オルディーベヘシュト月8日、イスラーム・ヒジュラ暦ラビー・アル=サーニー月10日、西暦4月28日

 この日は、マシュハドに葬られている12イマーム・シーア派第8代目イマーム・レザーの妹である人物の亡くなった日とされています。

 イマーム・レザーがイランのホラーサーン地方へ来ることになったいきさつについては以前にお話ししていますが、彼女も兄を追って、アラブの地からイランへとやって来ました。
 そしてイランのゴムの地で病死しました。
 彼女を葬ったとされる場所には現在、壮大な廟が作られ、周囲にはイスラーム神学校などが建ち並び、一大宗教都市を形成しています。

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 彼女自身はイマームではありませんし、何か奇跡を起こしたりしたわけでもありません。しかし、シーア派の人々の信仰を集め、イランでマシュハドに次ぐ巡礼都市となっています。
 もっとも、ゴムがこれほどの繁栄を見せるようになったのは、イラン・イスラーム共和国建国の祖とされるエマーム・ホメイニー師がその師と共に寂れていた ゴムに移り住み、神学校の復興のために働き始めてからであり、その後革命を経て、イラクでサッダーム・フセインが台頭し、シーア派に対して圧政を行い、 シーア派神学の中心地であったナジャフを破壊したからでした。もちろん、巡礼地としてはイランがシーア化した16世紀頃からその名前は見えていますが。

 サッダーム・フセインのシーア派弾圧により、イラク国内に留まることが危険となった高位のイスラーム学者たちが次々とゴムに移住し、イランのシーア派政権の保護を受けて学問にいそしんだことが現在のゴムの繁栄に繋がっているのです。

 サッダーム・フセインが失墜した現在、ナジャフの復興が行われ始めています。そしてゴムに避難していたイスラーム学者たちも続々とイラクへ帰っています。
 こうした動きを一番歓迎していないのは、イラクの暫定政権ではなく、イラン政府ではないかとも言われています。せっかくシーア派世界で高めたゴムの地位が、またナジャフに取られてしまうかもしれないのですから当然かもしれません。

 そうした政治とは関係なく、イラン国内だけではなく、周辺諸国からもマシュハド巡礼と一緒にゴムの巡礼を行うために多くの人が毎日この廟を訪れています。

まあすーめ2


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 昨日は夕方から雨。夜になってから強い風も吹き始め、またしても雨漏りが始まるのではないかと心配でなりません。
 何度直してもらってもどこかしらに隙間がある窓というのはイランらしいというのか何というのか。もともと雨の日が少ない国ですからまあ構わないのかもしれませんし、完全に密閉された家というのも別な問題がありそうですからこんなものなのかもしれません。それに床がタイル張りなので窓付近の絨毯さえめくっておけば実害はほとんどないわけですし、一番雨漏りが酷いキッチンは、掃除を兼ねていると思えば良いわけですし。

 この春は何となく例年に比べて雨が多く、涼しい日も多いような感じがします。カスピ海岸のギーラーン州でもなかなか暖かくならないので、田植えなどの農作業に遅れが見られるとか。カスピ海岸でもギーラーン州の東隣にあるマーザンダラーン州ではもう田植えの作業は始まっているそうなので、この話を聞いたときは不思議だったのですが、マーザンダラーン州の方が気温が高いのだとか。
 冬の終わりには雨雪が少なくて、この春からの農作業がどうなることやらと心配する農家の人も多かったのですが、この遅れてやって来た雨が恵みの雨となるのかどうか気になるところです。

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 「革命からずっとホシュクサール(降雨が少ない年)が続いていたんだから、そろそろ気候にも元に戻ってもらわないとね」とは知人の言。
「シャー(国王)と一緒にバラキャト(恩恵や霊力といった意味)もイランから去ってしまった」とはイランの人たちが良く言う言い回しです。確かにまあ、革命後、イラクは攻め込んでくるわ、経済制裁は受けるはで生活は苦しくなり、おまけに異常気象の影響まで受け、ですから、良いことがないなあと思ってしまうのも仕方がないのかもしれません。
しかしそれでも、これまで何とかやっていけてしまったところがイランのすごいところです。まだまだ問題は山積していますが、果たしてバラキャトはイランに戻ってくるのでしょうか。

 とはいえ、調査などで農村や山間部の未舗装道路を走ることが多い私としては、私が調査に出る前日は降らないで欲しいんだけどなあというのが正直な気持ちだったりするのです。

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 昨日は一日中外出していて新聞を買い損ね、テレビも全然見ないまま疲れ果てて寝てしまったために確認は取れていないのですが、外出中に聞いた話によると、大統領閣下が大統領としての任期を七ヶ月返上するとか。何のためなのかはよく分かりませんが、そのように言いだしているのだそうです。
 もし本当に任期を短縮するとすると大統領選挙が早まり、そうすると選挙が国会議員選挙に重なってしまうのでこちらも前倒しにしなくてはいけなくなるから面倒なことになるよ、とのこと。
 本当に任期の返上が認められるのかどうかは分かりませんが、七ヶ月早めたところで任期はあと1年半は残っているわけで、「別に明日辞めてくれてもいいんだけどなあ」という人々の声は掛け値無しの本音だと思います。私も、アパートの契約更新の際の例年にない値上げには青ざめていて、地価の上昇を抑えてくれる人に議員にでも大統領にでもなって欲しいと思わずにいられません。

 お話し変わって、先日の銀行強盗ですが、三人組の強盗が銀色のコルトを持って「警備の兵士がいた銀行内で」行った犯行だとか。
 犯人の一人はその場で射殺され、残り二人も逮捕され、銀行には特に被害もなく、昼には通常営業に戻っていたようです。
 「兵士がいたのにそういうことするのかなあ」と言った私に、「兵士ったってサルバーズ(徴兵期間中の兵士)でしかないんだから子どもだろ。見くびってたんだよ」というあっさりした返事。
 「でも、すぐに事件は解決したわけじゃん」と言うと、「でも射殺する必用はないだろ。頭に血が上って、足を狙うとかできなかったんだよ。逃げ出さなかっただけ上等だろうけど」とのこと。「でもまあ、銀行に兵士を置いて悪いことはないよ。それがバッチェ(子どもの意味)だったとしても効果はあるだろうね」という結論。
 銀行に銃を持った兵が立っていることは国の方針なのかと尋ねてみたところ、銀行の支店それぞれの判断で、営業時間中ずっと兵にいて欲しい場合は1日8万リヤール(900円くらい)を国に支払って兵を派遣してもらうのだとか。それをしない本支店の場合は兵が定期的に巡回してくるのだそうです。
 コルデスターンなど国境州に置かれている文化財保護庁の支部などにも時々兵士がいて、どうして文化財保護庁に兵士が?と不思議に思っていたのですが、これも調査の際の警備のために国から派遣してもらっている兵士だったのかなあと思ったのでした。

さるばーず


 また少し話が変わるのですが、戦争が高度化というかどう表現して良いのかちょっと分からないのですが、専門的な技術を必用とする分野が増えている現代の軍隊において徴兵制度というのは必用なのかなあと、ちょっと疑問に思わないでもありません。へぼへぼなよなよしたテヘランの男の子たちを見ていると、ちょっと軍隊で鍛えてもらえ、と思うときもなきにしもあらずなのですが、でもやはり、大学で教えていると、大学を卒業してすぐの2年間近くを軍隊で過ごし、大学でせっかく覚えた知識をその間に忘れてしまったりしているのを見ると、その意義について悩んでしまうこともしばしばです。
 口の悪い友人に言わせると、「イランは結局、そんな高度なことはしていなくて、人海戦術でないと戦争ができないって事だよ」とのことですが、若い有為の人材を消費しないような軍隊のシステム構築と外交が本当の政治なのではないのかしらと思うのですがどうなのでしょう。古典ペルシア文学にも「軍は常に整えておけ。しかし戦争にならないように努力することが為政者の務め」とされているし、これは正しいことなのではないかしらと思うのです。

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 イラン暦オルディーベヘシュト月6日、イスラーム・ヒジュラ暦ラビー・アル=サーニー月8日、西暦4月26日

 この日は、12イマーム・シーア派第11代目イマーム・ハサン・アスカリーの誕生日です。

 少し前に、このイマームの殉教日でもお話ししましたが、彼は極端に逸話が少ないイマームで、お話しすることがほとんどありません。殉教日に語り尽くしてしまいました。

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 昨日の朝、大学の近くにある銀行に強盗が押し入るという事件がありました。

 私はたまたま銀行があるのとは別な方向から大学へ入ったため知らなかったのですが、私の直後にいらした先生の話を聞くと、大変な騒ぎになっていたようです。
 けが人らしきひとが運び出され、歩道に寝かされていたとか、それはもう亡くなっている人だったとか、とにかくまあ身近でこんなことが起こるとはとびっくりでした。

 昼食に出たときにもまだ新聞などの記者たちがいたので、ニュースのチェックをしようと思っていたのですが、中間試験の問題作成に追われているうちにうっかり忘れてしまいました。

 現場を通りかかった先生によると、乗り合いタクシーの運転手が「銀行の金なら取って良し」というようなことを言っていたとか。いや、さすがにそれはまずいだろうと思うのですが、このところの物価高に悩む人たちのある意味での本音ではあるだろうなあというのは分かります。

 それにしても思うのは、私がイランに来たばかりの頃は、銀行へ行っても「今は現金の持ち合わせがないからだめ」とチェックの換金や現金の引き下ろしを断られることもあったのですが、今は強盗が入るくらいに銀行にお金があるんだなあというところです。それに、以前は本当にぼろぼろで「これって本当に使えるの?」という紙幣が多かったですし、高額紙幣が足りなくて、小額紙幣を山のように渡してくることも多かったです。1万リヤール札100枚ではなくて、 1000リヤール札を1000枚ですからたまりません。よく友人と、「イランじゃお札も量り売りって感じだよね。キロあたりいくら?って」と冗談を言っていたものでした。もっとも、私がイランに来る以前の様子を知っている友人によると、「500リヤール札で渡されたこともあったよ」だそうですから、私が来た頃はまだ少し状況が改善されていたのかもしれませんが。

 少し前までは国営の銀行しかなかったイランも、この二三年で民間資本の銀行も増え、銀行業界も様変わりしているようです。
 銀行にお金が集まっていることもその一つですが、もう一つ。
 以前は、銀行の前に銃を持った兵士が立っていることも多かったのですが、今ではそれも減っているような感じがするのです。もちろん、今でも銀行によっては兵士が立っていたり、巡回してきたりしています。私がよく使う銀行の支店でも、支店長となにやら話しをしながらお茶を飲んでいる兵士や警官の姿を時々見かけます。

 それでも事件は起こってしまうのだなあと、防犯の難しさを感じた事件だったのでした。

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 タクシーに乗っていたときのこと。
 朝の出勤時間帯で高速に入るあたりで少し渋滞していました。
 そんな中、私が乗っていたタクシーの前におばさんが運転する教習車がいました。
 まだ運転を習い始めて間がないのか、運転もぎこちなく、流れに乗れません。それでなくとも自分勝手な運転をするひとばかりがひしめく渋滞の中なのですから、おばさんも教官も大変だったと思います。
 しかし、その教習車にいらいらした私が乗っていたタクシーの運転手は、強引に教習車を追い抜きにかかりました。当然、周囲の自動車を押しのけるようにしてです。
 そこへ後ろからやはり強引に割り込んできた乗り合いタクシーがやって来て、あわや接触、という事態に。
 まあ、スピードは出ていませんし、基本的に運転が上手い人たちなので事故にもならず、双方共に教習車を追い抜きました。
 しかし、後ろからやって来た乗り合いタクシーは、方向指示器も出さずに突然進路変更をしてきたこちらに腹を立てたらしく、窓から腕を出し、手振りで抗議の意を伝えてきました。
 すると、こちらの運転手が激しく反応。高速道路上で乗り合いタクシーを激しく追走。併走しながら窓を開け、怒鳴り始めました。

「おまえ、なんだ、そのバンダリーは!」



 思わず座席でこけそうになってしまいました。

 バンダリーというのは踊りの一つで、激しく腰や手をくねらせるようにして踊るものです。テヘラン市内の踊りの教室でも人気の踊りの一つだとか。

 バンダリーって、あのバンダリーだよな、などと考えているうちにも走りながらの口論は続いています。

「俺がバンダリーを踊れないからって悪かったな!(意訳)」
「そこの路肩に止めろ!話をしようじゃないか!」
「何だ、バンダリーなんか踊りやがって!ペイカーンの田舎もんが!」

 あの〜〜〜〜どちらもお客が乗っているんですけど〜〜〜というこちらの内心の声はもちろん聞こえません。
 これはまずいと、「あの〜〜〜。私、急いでいるんで〜〜。ああいうのはほっておいてもらえませんか〜〜〜?ほら〜〜〜、向こうはペイカーンにしか乗れない田舎者なんでしょ?いいじゃないですか、ほっときましょ?私、急いでいるんですよ〜〜」と「お願い」をして、何とか口論をやめてもらったのですが、なんだかイランだな〜〜とちょっと思ってしまった朝の出来事だったのでした。

 それにしても、はじめてハンドルを握る人をこんなとんでもない交通事情の道路にいきなり放り出すイランの教習というのはどうなのかなあと思うのですが、どんなものなのでしょう。こうやって、テヘランのとんでもない運転を覚えていくんだろうなあと、このままじゃテヘランの運転マナーはいつまで経っても良くならないのではないかと思わずにいられないのでした。

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 今日はイラン暦オルディーベヘシュト月3日、イスラーム・ヒジュラ暦ラビー・アル=サーニー月5日、西暦4月23日

 今日はシェイフ・バハーイー記念日です。

 シェイフ・バハーイーは西暦1546年頃に学者の家系に生まれ、後に家族と共に各地を旅し、後にサファヴィー朝の都となるイスファハーンに落ち着きました。イスラーム諸学、神秘主義、数学、天文学、文学など様々な学問に通じた、優れた学者となりました。その学識は、その当時のイランの支配者、サファヴィー朝のスルターン・タフマースプなどに招かれるほどであったと言われています。
父の死後、思うところあってイラン世界各地へと旅に出ました。30年にも及ぶ旅の後、イスファハーンに戻り、そこで亡くなりました。
現在、彼の墓はマシュハドのイマーム・レザー廟にあります。
サファヴィー朝時代のイスラーム学者であり、文学者であり、神秘主義者であった彼の作品は、文学的な文章や詩によってシーア派の理念や神秘主義を説いたものであると言われています。

 イランというとシーア派というイメージがありますが、16世紀までは、地方によって濃淡はあったでしょうが、基本的にスンニー派の方が多数派でした。しかし、西暦1501年にスーフィー(神秘主義)教団の教主であったイスマーイールが、教団信者であったトルコ系の遊牧民たちの力によって白羊朝を追い落とし、政治的な権力を手に入れ、12イマーム・シーア派を国教とすることを宣言しました。
 もちろん、それによってすぐにイラン全土がシーア化したわけではありません。しかし、シーア化が徐々に進み、現在のイランに至るのです。

 イラン人が「世界の半分」と誇る(トルコ人によると「もしイスタンブルがなかったなら」と続くそうですが)エスファハーンの美しい建築群も、サファヴィー朝によって作られたものです。
 現在のイランの人々が、「イラン文化の粋」と考えるエスファハーンの美を作ったのが、トルコ系の王朝であるサファヴィー朝というのはなんだかイランらしくて面白いなあと思うのでした。

ますじぇで・えまーむ


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 テヘランでは、一年に一回、ノウルーズの後に物価の上昇が起こります。

 この二三年はそれほどでもありませんが、以前は、必ずこの時期に乗り合いタクシーや商品の値上げがあったものでした。
 その理由は「ガソリンの値上げがあったから」でした。

 ガソリンが値上がりしたからタクシーの料金を上げる。ガソリンが値上がりしたから商品の値段を上げる。
 非常に明快な理由と結果でした。

 ただ、これが年中行事と化していたためでしょうか。
 ガソリンの値上げがなかった昨年も、何故かノウルーズの後に乗り合いタクシーをはじめ、値上げが行われました。
 「ガソリンは据え置きだったでしょ?」というこちらの疑問に対し、タクシー運転手は「ガソリンは値上げしなかったけど、オイルの値段が上がった」という訳の分からない理屈で押し通し、結局値上げを飲まされたことを覚えています。

 今年も現在のところはガソリンの価格はそのままです。1リットル1円くらいでしょうか。

 イランは産油国だからガソリンが安い、というふうに考える人も多いと思いますが、これは実は大きな間違いです。
 イランは国内でのガソリンの供給が需要に追いついていないため、輸入をしています。その輸入したガソリンを、補助金を付けて国民に安く売っているため、国民がガソリンを消費すればするほど財政が厳しくなるという困った状態です。
 しかし、国民にしたらそんなことは知ったことではありません。
 「革命の時に、ホメイニー師は水道やガスや電気、ガソリンをただにすると約束したんだから、たとえ少額でも払わされていることがおかしいんだ」という人もいるくらいです。

ガソリンスタンド


 この国庫を圧迫するガソリン補助をどうにかしようと、大統領閣下はガソリンのクーポン制を打ち出しました。
 クーポン制はこれまでにも何度か議題には上ったのですが、国民の反発を恐れた政府国会がその都度廃案にしてきたものでした。
 それを、大統領閣下は、実現して見せようというのです。
 クーポンで一ヶ月90リットル。それを越えた場合は1リットルあたり3500リヤール(45円くらい)以上で販売する、というのです。
 近年改善が見られるとはいえ、まだ燃費が良くない自動車の多いイランでは、90リットルなどあっという間に消費してしまいます。(イランの今は生産されていない国産車ペイカーンは100キロメートルをただ真っ直ぐ走るのに14〜16リットルのガソリンが必要だとか) 私の知人のドライバーは、「90リットルなんて3日で終わるよ」と怒っていました。
 国の財政は健全化するかもしれませんが、国民の生活はどうなるのでしょうか。考えるとちょっと怖いものがあります。これまでの年中行事の値上げどころではない物価の上昇が起こるに違いないからです。それに対して国民の収入がどれほど増えるかというと、かなり疑問があります。こちらについても何らかの対策を取らないといけないのでは?と思うのですが、どうやらそうではないようです。

 そのため、ガソリンの値上げをしたら大統領はその地位から引きずり下ろされるだろうと考える人は多いです。

 大統領に就任以来、何を勘違いしたのか諸外国との政治・経済関係や対イラン感情をひたすらな強硬路線によって悪化させることに邁進し、彼の当選の原動力だった「社会的弱者」の救済をすっかり忘れ、国内経済を悪化させ、生活苦にあえぐ弱者を増やしているように見える大統領閣下に絶望する国民は日に日に増えています。
 正直なところ、これらがすべて大統領の責任かというと、大統領に政治的実権がほとんどないイランの政治体制を考えるとかなり疑問があります。しかし、ハータミー前大統領が経済無策とレッテルを貼られてしまったことを思えば、大統領というのは責任を取るためにいるのだろうということで、人々の間で期待され始めているように、退陣ということも有り得るのかなあと、恐らくすぐには起こらないであろうアメリカのイランを攻撃よりも、ガソリンの値上げが国会を通るのかや大統領の失脚というのがあるのかということの方が気になるのでした。

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 今日はイラン暦オルディーベヘシュト月1日、イスラーム・ヒジュラ暦ラビー・アル=サーニー月3日、西暦4月21日

 この日は、イランで最も有名な詩人の一人、サアディーの記念日です。

 イランは韻文学の国であると言うことができるくらい、イランは多くの優れた詩人を生み出してきましたし、イランの人々は詩を愛してきました。現代でも、幼稚園の頃からイラン人は詩に親しみ、古典や現代詩を問わず、詩を暗唱できる人が多く、演説や講演の中で、あるいは日常会話の中ですら、詩の一節を織り交ぜながら話を進めることが気の利いたことであると考えられています。例えば、ハータミー前大統領の演説など、哲学者の言葉の引用やら詩人の言葉の引用やらがどっさりで、その場で同時通訳をしろといわれたら絶対にお断りしなくてはならないほどでした。

 数多くの優れた詩人を生み出してきたイランですが、古典詩の分野で特に優れた詩人の一人がサアディーです。

 サアディーは西暦13世紀の初頭に、シーラーズで生まれました。幼い頃に父を亡くし、祖父や叔父の世話になりながら基礎的な学問を修め、更に高度な学問を学ぶため、その当時最も名高い学問の中心地であったバグダードへ行き、そこで学びました。
 しばらくバグダードに留まり、学んだり教えたりして過ごしていましたが、ある時、思い立ち、一ダルヴィーシュ(托鉢僧)として放浪の旅へと出立しました。どのくらいの期間、旅をしていたかは明らかではありませんし、どのような場所を訪れたのかもはっきりとはしていませんが、恐らく20年以上を旅の中で過ごし、その当時のイスラーム圏のほとんどを訪れていたと考えられています。
 この旅の中で、結婚したり、子どもと死別したりという体験をし、また、十字軍によって捕らえられて強制労働をさせられたりという経験をし、また各地の様々な階層の人々と接してきました。こうした体験は、サアディーの作品に大きな影響を与えました。

 サアディーが故郷であるシーラーズに帰ってきたのは西暦1256年のことでした。シーラーズに戻るとすぐに彼は詩作をはじめ、その名を知られるようになりました。
 サアディーの最も有名な作品『ブースターン(香りの園)』と『ゴレスターン(薔薇園)』は、教訓的な内容を持つ作品であり、彼自身の体験談や逸話、物語を、簡潔且つ巧みな文学的なスタイルで述べ、その中で自然と倫理を説いています。内容のおもしろさとその流麗で気品ある文体から、この二つの作品はイラン文学史における 最高傑作と見なされています。

 サアディーの墓は、彼が隠遁生活を送っていたとされるシーラーズの郊外にあり、現在はそこに美しい廟が作られ、詩を愛好する人たちが訪れる場所となっています。

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 のイランは日本に負けず劣らず美しいと思います。
 特に農作業の始まった農村部の美しさは独特です。

 緑も鮮やかな畑もそうですが、梅、サクランボ、桃、杏、りんご、梨、アーモンドなど様々な果樹の花が次々と咲く果樹園の美しさはため息が出るほどです。

 イランの農村も後継者難が悩みの種ですが、農業という大切な産業が荒廃しないように願います。

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 先日の大統領閣下の写真ですが、その脇のペルシア語は何を言っているのですか?というご質問をいただきました。

 ファールス州訪問に際して
 スィーヴァンド・ダムに水を溜める!


 という感じです。

 どうしてこのスィーヴァンド・ダムに水を入れることがニュースになるのかというと、このダムの完成によって貴重なイスラーム以前の遺跡が水没してしまうからなのです。
 イラン国内にイスラーム以前、アケメネス朝やサーサーン朝の遺跡は実はそれほど多くなく、非常に貴重なものなのですが、ダムの完成によって水没してしまうのです。そのため、イラン文化財保護庁などは計画の見直しなどを懸命に働きかけてきました。
 しかし、大統領閣下は、現地で遺跡よりも現金が大切だと宣言したのです。

 スィーヴァンド・ダムの完成によって、周辺住民が恩恵を受けるのならまだダム建設の意義を理解できるのですが、灌漑用、飲用としての利用もそうですが、「飲料水として湾岸アラブ諸国に売る」ことも大きな目的の一つなのだそうで、「金のためならイランの歴史を踏みにじっても良いのか」「イラン国内で水を必要とする地域も多いのに」と不満を持つ人も多くいます。

 個人的には遺跡保護をきちんと議論してからダム建設を行うべきだったと思いますし、イランのように乾燥した地域で、地表に大量の水を露出したまま貯めても蒸散量がものすごいことになってしまうのでは?という素朴な疑問もあったりします。

 イランの水が数年後には枯渇するかもという指摘もある中、遺跡保護ばかり声高に言うべきではないのかもしれませんが、もう少し違うやり方があったのではないかと残念に思うことも事実だったりするのです。

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 昨日は嫌なことがちょっと続き、気分が何となく晴れなかった一日でした。
 仕事であちこち移動する間に、ちょっと立ち止まってみることに。

 テヘランは春を迎え、花の色が町を彩っています。
 春の花で私が好きなものの一つが藤です。
 イランにも藤があるのを知ったときはとても嬉しかったものでした。
 テヘランでも、あちこちのアパートで塀の上を這っていたり、杉や松の木にからんでいたり、更には電柱や電線にまでからみついていたりして、淡い紫色の花を垂らしています。

藤


 花の下を通れば香りも強く、ちょっと気分が浮き立ったひとときでした。

藤2


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大統領閣下


 だから何?と言われればそれまでなのですが、ちょっとインパクトがあったので。
 昨日のエッテマーデ・メッリー紙から。

 大統領閣下は現在ファールス州訪問中なのですが、それにしても、地方遊説が好きな大統領だな〜と。
 それより先にやるべき事は沢山あるだろうになあと思うのですが、ポピュリストだからなあ。地方へ行って、予算をばらまくことで人気を取って、マスコミに露出をして、なんでしょうね。テヘランで真面目に執務をしていると、あんまり露出ができないからという友人たちの言葉に思わず納得してしまったのでした。

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 昨日の夕方、アフガン人の友人と会う約束をしていました。
 電話の音声が良くなかったため、「夕方行くから」と言われたのに、「夕方、来なさいよ」と聞き間違えてしまい、彼女の住む大学寮へと行ってしまいました。当然のことながら彼女は留守でした。

 家へと戻る途中、大家さんから携帯電話に連絡が入り、「『りょうこ』という人が尋ねてきているけど、約束があったのか?」と言います。はて?そんな知り合いなんていたかなあと思いながら、「日本人?」と聞くとそうだと言います。変だなあと思いつつ変わってもらうと、約束をしていた彼女でした。

 とりあえず、また後日会うことになり、彼女とはそれで済んだのですが、夜遅くなってから大家さんがやって来て、「彼女が待っていたからあなたに連絡をしたけど、問題はなかったか?」と言います。
 どうしてわざわざそんなことを言いに来たのだろうと思ったら、要するにこういうことでした。
自分は彼女を日本人だと思ったからあなたに電話をしてあげたけど、ペルシア語で話しをしているからおかしいと思った。それで彼女に聞いてみたら中国人だと言っていた。本当にそうだったのか?

 納得しました。
 彼女はハザラ系アフガン人なので、日本人によく似ています。でも、彼女は自分をアフガン人だと言うと、イラン人である私の大家さんから嫌な目に遭うのではないかと警戒して、中国人だと言ったのでしょう。
 それほどにイラン人のアフガン人に対する差別は酷いのです。そして、残念ながら、大家さんも彼女が実はアフガン人だったのではないかと不審感を持ち、私に確認に来たのです。

 イランの人は概してとても親切です。
 しかし、その一方で、アフガン人やアラブ人、トルコ系、バルーチなど、自分たちが「イラン人でない人(ヨーロッパ系を除く)」と見なした人に対しては、人によって濃淡はあっても差別意識を持っていることも多いです。もちろん、イラン人に限らず、日本でも他のアジア諸国でもヨーロッパでも同じようなものですが。

 イラン人の差別意識をもっとも向けられているのがアフガン人なのですが、個人的には、あれこれと理由にもならないような理由を並べて働こうとしないテヘランの若者よりも、アフガニスタンに残る家族のために黙々と働くアフガン人の方が人として立派なのでは?と思ったりするのです。

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 実は、一時帰国をしたときに、(ごくわずかですが)日本円と銀行のキャッシュカード、クレジットカードなどが入った財布をテヘランの部屋に忘れたまま帰国してしまいました。
 関空に到着して、「さて、何か飲もうか」とバッグを開けてびっくりです。
 とりあえず羽田までのチケットはありますし、羽田空港に迎えに来てもらう事になっていたので自宅に帰るには何の問題もありません。しかし、一文無しでいるというのは何とも心細いものだというのがしみじみと身にしみた一時でした。持っているのはテヘランに戻ってから自宅へ帰るタクシー代ほどのイラン・リヤールだけで、これは日本では換金不可能なのですから。

 そんなこんなでテヘランに戻り、今度は生活費としてのリヤールが必要になり、日本円をリヤールに換金してきました。
 一昔前までは換金のブラックマーケットがあったイランも、今はどこで両替しようとほとんど差がありません。町には「公認両替所」の看板を掲げた両替所がありますし、銀行でも両替所とほぼ同じレートで両替できるようになっています。昔は、警察に見つからないかどうかとびくびくしながらブラックマーケットで両替をしていたことを思うと、なんだか隔世の感があります。
 ブラックマーケット全盛時はとにかくアメリカ・ドル、それも100ドル紙幣がもっとも価値があるとされていて、それ以外の紙幣はレートが下がるなどなんだか不思議な事がありましたが、今ではそんなこともなく、1ドル紙幣だろうが100ドル紙幣だろうが同じレートで両替してくれます。この1、2年はドルよりもユーロの方が好まれるようで、ユーロのレートが少し良かったりします。

 このイラン国内でのドルからユーロへの緩やかな切り替えというのは、町の両替商だけではなく、テヘランにある語学学校でも外貨での授業料支払いがドルからユーロに変わったとか。

 ところで、イランではノウルーズに海外に出かける人が大量にリヤールから外貨への両替をするため、ノウルーズ直前になると外貨のレートが上がります。貧乏留学生だった頃(今でもあまり変わりませんが)には、この時期を狙って両替をしたものでした。
 そしてノウルーズが終わると、余った外貨を両替したり、ノウルーズ中に出費がかさんだ人が手持ちの外貨を両替したりする人が増えるため、今度は外貨のレートが下がります。
 最近ではそこまで極端ではありませんが、日本では例えば夏の海外旅行シーズンに外貨のレートが上がったりしたっけなあと、国の経済状態などとあまり連動していないように見える外貨の動きにちょっと不思議な感じがしてしまうのでした。

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 今日はイラン暦ファルヴァルディーン月25日、イスラーム・ヒジュラ暦ラビーユル・アッワル月25日、西暦4月14日

 今日はアッタール・ニーシャープーリーの記念日です。

 アッタールは12世紀中頃から13世紀初頭にかけて活躍したイランの神秘主義詩人です。

 彼は西暦1142年頃にホラーサーン地方の都市ニーシャープールに生まれました。本名はファリード・ウッディーン・ムハンマド、医薬(アッタール)を生業としていたため「アッタール」と号したと言われています。

 彼は本業の医業で成功し、裕福な暮らしをしていたとされています。その恵まれた暮らしをしていた彼がどうして神秘主義の道に入ったのか、その理由は明らかではありません。

 アッタールは多作な詩人であり、多くの作品を残しています。俗説ではありますが、彼はコーランの章の数(=114章)と同じ数の作品を残したと言われるくらいです。そのため、他の詩人の作品がアッタールの名前で伝わっていたりして、彼の作品の真偽については様々な異論があります。現在、アッタールの真作とされているのは8つの神秘主義を題材とする詩集と、散文の神秘主義者列伝です。その中でも最も有名な作品が鳥の帝王(=神)である不死鳥(スィームルグ)に会うために旅立った数千羽の鳥たち(神を求める神秘主義者たち)が、様々な苦難を乗り越えていく道程を描いた『鳥の言葉(マンティクッ・タイル)』です。

 アッタールは西暦1221年に起こったモンゴルのニーシャープール攻撃の中で殺害されたと言われています。

 その当時のニーシャープールは戦乱や地震による破壊によりほとんど残っていません。現在のニーシャープール(現在のペルシア語ではネイシャーブール)の郊外に、アッタールの小さな廟が作られ、近くにある有名な詩人であり数学者であったオマル・ハイヤームの廟と共に、多くの人が訪れる場所となっています。

アッタール


 写真はアッタールの胸像(想像)。後ろに見える青いドームの小さな廟が、アッタールの墓とされる廟。

にーしゃーぷーる


 いにしえのニーシャープールの遺跡。今はこのように土塊が残るのみ。

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 テヘランに戻ってからばたばたと慌ただしく、こちらの更新をする余裕がありませんでした。

 昨日の金曜日は何の予定もなく、ゆっくりするぞと決めていたのですが、それでも普段通り朝6時に目が覚めてしまうのですから習慣というのは恐ろしいものです。
 まあそれでもそれからかなりの時間、ゴロゴロとベッドの中にはいたのですが。

 ごろごろとしていると、庭で大家さんが息子さんたちと楽しそうに自動車を洗っている音がします。
 しばらくすると大家さんの親戚が遊びに来た声が。

 下の階の一家もどこかへ遊びに行ったようです。

 日本の日曜日も平日に比べればそれなりにのんびりとはしていましたが、やはりイランに比べると「休日」という感じは少なかったなあという感じです。

 イランでも個人商店の一部は金曜日でも開いていますし、タクシーやバスなど交通機関の運転手もシフト制で働いています。でも、圧倒的に町は「休日」という雰囲気が溢れています。
 日本のサービス業ように、「日曜日こそ稼ぎ時」というような感じだと、そこで働く人は子どもと一緒に休日を楽しむというのは難しいのだろうなあと思わずにいられません。
 平日の列車も終電まで満員で、これじゃあ家に帰っても家族と話す時間も大して取れないのではないかと思ってしまうほどでした。

 私のいなかは、今はもう変わっているのかもしれませんが、夜9時を回ればもう深夜という感じでした。父は定時出勤定時退社という人だったので、夕食は必ず家族全員揃って食べていましたし、休日は一緒に釣りに行ったり、庭いじりをしたり、山菜採りやキノコ採りという子ども時代を送ることができました。そういえば、笹団子を作ったり草餅を作ったりというのもありました。
 親戚がわりと近くに住んでいたので、いとこたちと山や川で遊んだりというのもごくあたりまえのことでした。今でも、いとこが自分の子どもを連れて私の両親の家に遊びに来たりするそうですし、親戚間の行き来という点で見ると、私の実家もイランにちょっと似ているのかもしれません。
 大学進学のために実家を離れるまで、特に大したことを話すわけでなくとも、家族単位で休日を過ごすことが私にとっては割と当たり前のことだったのです。
 でも、今の日本の都市部の生活スタイルでは、家族で休日をのんびり過ごすということが難しい家庭も増えているのではないでしょうか。

 そういえば、先日のスィーズダ・ベダルに対するコメントの中に、「イランでは何歳くらいまで子どもが家族と一緒にピクニックに行くか」というような質問がありましたが、「結婚して家を出るまで」あるいは「結婚しても一緒に行動することもある」という答えになります。
 もちろん、高校生や大学生になった子どもが自分たちの友達と一緒に遊びに行くこともありますが、基本的にはやはり家族と一緒に行動します。

 日本の働くお父さんやお母さんは家族のために働いているのでしょうが、でも、その結果、家族が一緒にいることができないことも出てくるというのはなんだか皮肉ですし、寂しいことだという感じがします。

 日本にいる間に見たニュースの一部は家族の崩壊を如実に表していたように思います。例えば、親に生活態度や成績を注意されたからといって親を殺すというのは、こちらで暮らしているとちょっと信じられません。親子の間で信頼関係があれば、そんなことにはなりにくいだろうと思うのです。もちろんイランにだってそういうことはあるのでしょうが。

 経済発展と家族のつながりの維持というのは一緒にならないのかなあなどと、ベッドの中でうつらうつらと考えてしまった金曜日なのでした。

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 先日、家族で六本木ヒルズに出かけたとお話ししました。
 その時に、せっかくだしということでお金を出して展望フロアまで行ってきました。
 偶然なのですが、その何日か前に、友人が私を都庁の展望台まで連れて行ってくれていました。

 都庁から「あ、あれが六本木ヒルズだね」と言った数日後には、「あ、あれが都庁だね」と、都心を挟んで双方を眺めることになるとは、なんだかおもしろい経験でした。

東京2


 こちらは都庁から見た東京。下の緑は明治神宮のあたり。


東京


 で、こちらが六本木ヒルズから。下の緑は青山霊園。

 都庁に足を踏み入れたのは今回が初めてだったのですが、なんというか、「こんな立派な建物が必要なのかなあ」と思ってしまいました。
 まあ、東京という日本の首府の顔ですからきれいであるに越したことはないのでしょうが、それにしても、という感じはしてしまいました。

 イランの役所というのはそれほどぴかぴかに立派な建物ではなかったりします。
 昔はきれいだったのかもしれないけどねえ、という建物ばかりです。それに、高層ビルではなく、低層の建物がほとんどです。注意して歩いていないと気がつかないくらい普通のビルだったりすることもあったりするほどです。

 テヘランも高層の建物が増えつつありますが、その建築現場を見ていると「地震は大丈夫か?」と不安になることがあります。(もちろんその心配は高層建築に限りませんが)
 これまでは日本は大丈夫なのだろうとなんとなく思っていたのですが、最近の耐震偽装建築のニュースなどを見た後ではなんだかどんな建物も信用できないような気分になってきます。

 イランにいても日本にいても、結局、地震の心配はついて回るなあと思わずにいられなかったのでした。

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 今日はイラン暦ファルヴァルディーン月19日、イスラーム・ヒジュラ暦ラビーユル・アッワル月19日、西暦4月8日

 今日は核技術の日です。
 昨年のこの日にウランの濃縮に成功したことを記念して、この記念日が制定されました。

 「いずれ枯渇する石油に頼らないエネルギー源を持つことは国民の利益である」

 というイランの立場は正直、理解できます。ただ、それをこっそりと隠れてやるから非難されるんだよ、とは言いたいですが。これでは核兵器開発のために行っていると言われても仕方がないと思いますし。
 その一方で、アメリカをはじめとする国々のダブルスタンダードに腹を立てるイランの主張も分かります。IAEAに加盟もせずに核開発を行っているインドはどうしておとがめなしで、IAEAに曲がりなりにも加盟して査察の受け入れもしていたイランが駄目なのか。正直、正論を述べているのはイランの方ではないかと思うのです。イランがこっそりと核開発していたという一事を除けば。

 ただ、ちょっと疑問に思うのが、「イランは本当に自力で核開発を行う気があるのか?」というところです。
 「やっているじゃないか」という方も多いと思いますが、でも、イランの核開発には危機感というか切迫感というかそういったものが感じられないのです。非常にのんびりとしているように見えるのです。本気で核開発をしたいのなら、お隣のパキスタンやインドを見ても分かるとおり、もっと早くにウラン濃縮などという段階は超えていなければいけないように思うのです。
 イランには資金も海外で技術と知識を身につけてきた若い研究者・技術者も豊富にあるはずです。それを最大限に使った場合、とっくに核兵器の一つや二つ持っていても不思議ではないように思うのです。それが、ウランの濃縮を始めた、というところで留まっているのはなんだか不思議な感じがするのです。

 そんな私の個人的な感想はともかく、お祝いの日らしく、我が家の裏手では盛大に花火が打ち上げられ、窓ガラスが割れるのではないかという振動にさらされているのです。個人的には、今日は核よりもこちらの方が怖かったりするのです。

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 今日はイラン暦ファルヴァルディーン月17日、イスラーム・ヒジュラ暦ラビーユル・アッワル月17日、西暦4月6日

 この日はイスラームの預言者ムハンマドの誕生日だと言われています。
 預言者ムハンマドの誕生日は実はよく分かっておらず、シーア派とスンニー派で意見が分かれています。多くのスンニー派の国々ではラビー・アル=アッワル月12日とされていますが、イランではラビー・アル=アッワル月17日を預言者の誕生日としています。

 預言者は自分が人間であることを強調しており、自分が偶像化、神格化されることを認めませんでしたので、ムスリムがその誕生日や死去した日などを祝ったりすることを好みませんでした。そのため、現在でもムスリムは、預言者の誕生日を祝日としてはいますが、本来は盛大に祝ったりすることをしません。イランでも、ラビー・アル=アッワル月17日は預言者の誕生日として祝日ではありますが、国を挙げての盛大な祝祭が行われることはありません。

 イランでは、預言者の誕生日とされる日が二種類あることを認めており、双方の見解を尊重し、ラビー・アル=アッワル月12日から17日までを「団結週間」として、全ムスリムの団結を確認する日々であるとしています。

 また、本来は祝祭を行わないことになっているはずの預言者の誕生日ですが、やはりめでたいことだしということで、正式な祝日としてではなくともムスリムが多い国ではお祝いをするようです。
 日本に住むムスリムたちも、スンニー派が多いためスンニー派の預言者の誕生日に集まって記念行事を行っているとのことです。


 またこの日は、12イマーム・シーア派の第6代目イマーム・ジャアファル・サーデクの誕生日でもあります。
 シーア派はいくつかの分派が存在していますが、その中でも大きな勢力を持つのがイランが国教としている12イマーム派であり、またインドなどを中心に信徒を持つイスマーイール派の各分派も多くの信徒を持っています。この12イマーム派とイスマーイール派の分裂のきっかけとなったのが第6代目イマーム・ ジャアファル・サーデクの行動でした。
 イマーム・ジャアファル・サーデク以前にも、誰がイマームの地位を継承したか、すべきかということで解釈が分かれ、いくつか小分派が存在していましたが、イマーム・ジャアファル・サーデクの存命中にも、イマーム位の継承を巡って大きなトラブルがありました。
 イマームははじめ、長子であるイスマーイールを後継者としていましたが、イスマーイールは長ずるに従って飲酒などの悪癖を見せるようになり、イマーム・ジャアファル・サーデクはその後継者の任命を取り消し、イスマーイールの弟であるムーサーを後継者としました。
 イスマーイールはイマーム・ジャアファル・サーデクの存命中に亡くなりましたが、イスマーイールの後継者任命の取り消しを認めない一派は、イスマーイールこそがシーア派第7代目イマームであり、イスマーイールが後継者を任命せずに亡くなったからには彼が最後のイマームであると主張するようになり、7イマーム派と呼ばれる一派を成すようになりました。
 この一派とは別に、イスマーイールの子どもであるムハンマドにイマームの位が継承されたと主張する一派も現れ、ムバーラク派と呼ばれました。後にこのムバーラク派がイスマーイール派の中心を成すようになりました。

 このように、シーア派の分派をいくつも作るきっかけとなったのが、イマーム・ジャアファル・サーデクによる後継者の変更だったのです。12イマーム派はイマーム・ジャアファル・サーデクの判断に誤りはなかったとして、ムーサーがイマーム位を継いだと考えており、このため、12イマーム派を別名ジャアファル派とも言うのだそうです。

 私個人の感想としては、「無謬」であるイマームが判断を間違うことはないはずなのだから、「イスマーイールはやっぱり駄目だ。ムーサーに後継者指名を変更する」というのはちょっと不思議な感じもしないでもありません。でもやはり「無謬」なわけですから変更の判断が間違っているわけもないか、とも思うしで、何とも判断が難しいところです。

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 今回の一時帰国の目的の一つは両親の還暦祝いでした。
 それぞれ仕事が忙しくて滅多に集まれない姉妹三人がそろって、両親の希望を叶えようということだったのですが、両親の希望というのがなんと東京見物。
 どこを訪れたいのかというと、これが両親共に全くばらばら。姉妹でルートをどうしたものかと頭をひねることに。

 とりあえず、ここは朝一番だよね、ということで父の希望の築地魚市場。朝ご飯に寿司というのは初めての経験でした。
 「そっち(新潟)も魚はおいしいし市場もあるじゃん」と言う私に「やっぱ、規模が違うし」とのこと。

寿司


 確かに、向こうではエビは甘エビが普通。

 それからこれもやはり父の希望で明治神宮。

明治神宮


 考えてみたら私も明治神宮は初めてでした。阪神ファンの友人に連れられて、神宮球場にはよく行っていたのですが(笑)。
 桜の季節の花嫁さん。

花嫁


 それから母の希望の青山ヒルズと六本木ヒルズ。普段の私にはとことん縁のない場所。

ヒルズ


 私一人だったら絶対に足を踏み入れないだろう場所。並べられている商品の価格を見るだけでめまいが。

 それからついでだしということで、前日にオープンしたばかりのミッドタウンへ。

ミッドタウン


 個人的には、前日に何万人もの人が訪れたと聞いてはいたものの、どうして?という感じ。ファッションなどにさほど興味のない私を連れてきても、結局は猫に小判(?)ということ。

 そして家族全員の希望で花見。どこにしようかと考えて、千鳥ヶ淵へ。

千鳥ヶ淵


 それにしても、家族全員に、「おねえちゃん、太ったね」と言われてしまったのはショックだったのでした。「イランの食べ物は太るんだよ」といいわけをしたものの、これはなんとかせねばと心に誓ったのでした。

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 先日の援助について「何でもいいから援助が欲しいんだろ」というかたがいらっしゃいました。

 どれほどの高みから見下ろしての発言かは想像もできませんが、人として最低ですね。

 蔑まれながら与えられる援助など、イランの人だけでなく、世界中どこでも、例えば先日大変な地震に見舞われた能都の人だってソロモンの人だって欲しいとは思わないのではないでしょうか?

 現実に、日本からの援助はもういらない、と言う人もいるのですよ。イランでは。

 ぜひこちらも読んでください。

⇒続きを読む

 今日はイラン歴ファルヴァルディーン月13日、イスラーム・ヒジュラ歴ラビーユル・アッワル月13日、西暦4月2日。

 今日はスィーズダ・ベダルです。

 スィーズダとは13、ベ・ダルはベ・ダル・キャルダン(追い出す)という動詞から来ているとかいうことです。
 新年の13日目に家から出て、自然の中で一日を過ごす日です。

 この日、テヘランに住む人たちは郊外の自然の中へ、あるいは近所の公園へ、そこもいっぱいだったら高速道路などの脇の植え込みの陰へと出かけ、お弁当を食べ、日暮れまでを過ごすのです。

 イランでは13は不吉な数とされています。そこで新年が始まって最初の13のつく日に外へ出かけることで、不吉なものを家の中に呼び込まないようにするのだとか。
 それに伴い、各地で不幸を避けるための様々な習慣が残っているそうです。テヘランでは、ノウルーズの飾りに使ったサブゼ(小麦などの新芽)をリボンで結び、それがほどけないようにして小川などに投げ込みます。これを忘れると女の子は行き遅れになってしまうのだとか。

 この日はイランでは公式な休日ですがスィーズダ・ベダルとは呼ばず「自然の日」と名付けられています。これは家の中でなく、自然の中で過ごす習慣から来ています。
 イランは例年、ノウルーズ以後、花が咲き、緑が芽吹き、急速に春らしくなります。しかし今年は、ノウルーズになってから寒さが戻ってきて、暖房をもう一度入れなくてはならないくらいになっているのだとか。寒さの中のピクニックになっていなければ良いのですが。

 このスィーズダ・ベダルが終わると新年の行事は一段落して、日常が戻ってくるのです。

ぴくにっく


 写真は公園でピクニックをする家族。
 以前撮ったスィーズダ・ベダルの様子をご紹介したかったのですが、写真が行方不明になっているので、スィーズダ・ベダルではない普通の金曜日のものですが、こんな感じということで。

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 イラン人側から見た援助に対する不満について先日お話ししましたが、今度はイラン側の問題について。
 といっても、完全にイラン側の問題なのかどうか悩むところではあるのですが。

 イラン政府とバム市の間で、復興の遅れの責任を押しつけ合い、また、被災者との間で様々な問題が起こっているいるという話はずっと耳にしていました。
 ところが、これがイラン国内だけでなく、日本をはじめとする外国の支援に関しても、イラン当局との間で不思議な形で問題が見られることを耳にしました。

 バムで地震が起こった直後、日本政府は被災者のためにと仮の住宅用にコンテナを千個バムに送りました(もっと多いかもしれませんが、私が聞いたのは千個分です)。
 被災した住宅跡でも、道路脇でもどこでもいいから、必要な人のために、ということだったと聞いています。
 私が地震から1年後にバムを訪れた際も、コンテナ住宅に住む人はまだ沢山いましたから、日本だけでなく、イラン国内をはじめ、様々な国から送られたコンテナが使われていたのだと思います。
 ところが日本がバムに送った千個のコンテナは、3年経った今でもまだ使われていません。

 使われていないどころか、コンテナにエアコンを取り付け、水道やガスを取り付けて台所仕事を行い、風呂を使えるようにする工事が今でも行われ続けています。
 このコンテナ住宅が700戸と300戸に分けて、市や郡の管理する土地に置かれ、バムの当局によって兵士が土地への入り口を守り、地元の人を一歩も入れずに工事が行われ続けているため、地元の人たちから何のための支援なのか、工事なのかと不審の目が注がれ続けています。

 この集合住宅のすぐ近くにイスラーム自由大学のバム校舎があるため、大学の寮として使われるのではないか。あるいは、市や郡の管理する土地に置かれていることから、とりあえず未だに住宅を持つことができない被災者に住宅として与えておいてほとぼりが冷めた頃に、家賃を取って市や郡の収入にするつもりなのではないか。等々色々な噂が飛び交っているそうです。

 緊急用住宅ではなく仮設住宅として被災者に提供するためのものであるにしても、地震からもう3年です。イランが用意した仮設住宅は地震から1年ほどの間に次々と建設され、被災者に提供されています。仮設住宅としてなら、イラン政府にしてもバム市にしても、あるいは日本政府(大使館など)にしても、どうしてそのようにバムの人たちに伝えないのでしょうか。

 「被災者のための緊急支援」としてコンテナを提供した日本側と、緊急用とは思えない設備をしずしずと整えて、二大集合住宅地を建設しているバム市との間に、何か意識のずれがあるのではないかと心配です。

 地震から何年も経ちながら、日本から送られた援助をバムの人たちが手にすることができない、目にすることができない、更には、それがどのような使われ方がするのかという情報すらないというのは不安と流言を呼ぶ原因になるでしょう。バムで日本の援助に対して不満の声が聞かれる原因の一つがここにもあるのではないかという感じもするのです。


 ところで、先日の日本の援助に対する不満についてですが、もう一度整理して述べさせていただきますが、私は、援助というのはあくまでその土地に必要なものを必要な形で与えることが大切であって、与える側の満足のために行うのではないはずという考えを持っています。援助について色々な考え方はあるでしょうが、受け取る側が傷つくような与え方はやはりどこかが間違えているのではないかと感じます。
 私が「タアッロフ」という表現を使ったことでそれを「禁じ手」と仰っている方がいらっしゃるようですが、あくまで、相手を理解することが必要なのではという意味でしか使っておりません。日本語にない概念をとおして異文化理解の必要性を言うことが禁じ手だとは思わないのですが。

 こうした考え方は間違っているのかもしれませんが、もしそうだとしても私はそう感じる、としか言うことはできないのです。

 それから、コメントで思い出しましたが、コメントというのはあくまで私の書いたものに対するコメントを行う場であってそれ以上の場ではありません。何かのアピールや宣伝をしたい場合、あるいは議論を行いたい場合は、ご自身のブログあるいはBBSなどで行ってください。

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Author:さらさや通称サラ
留学生としてイランへやって来て12年目。
テヘラン大学で日本語講師として働き始めて3年目。
テヘランの片隅でひっそりと(?)暮らしております。