この日は12イマーム・シーア派第11代目イマーム・ハサン・アスカリー(現代ペルシア語ではアスキャリー、アスギャリーとも)の殉教日です。
イマームも11人目となると書くこともあまりないのですが、このイマームは、12イマーム派にとって最も重要なイマームであり、救世主であるマフディーの父親として重要な位置にあります。
彼は28歳で暗殺され、殉教するに至ったとされていますが、マフディーはその一人息子です。イマーム・ハサン・アスカリーは息子が暗殺されてしまうことがないよう、5年間、息子の存在を隠し続け、自分の手元で大切に育てました。また彼はほとんど人前に出ることなく過ごしていたといわれています。
しかし、イスラーム・ヒジュラ暦260年のこの日(西暦873年12月29日)、イマーム・ハサン・アスカリーは時の支配者であったアッバース朝のカリフによって暗殺され、まだ幼いマフディーだけが残されてしまったのでした。
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被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
この地震のニュースを見て、先日友人から聞いた話を思い出しました。
イランのバムでの話です。
皆さんもご記憶のことと思いますが、三年と少し前、バムで3万人近くの人が亡くなるという激しい地震がが起こりました。
地震の規模で言うなら神戸や新潟、そして今回の能登半島の地震の方がずっと大きかったのですが、地震に対する備えの全くない場所で未明に起こった地震ということで信じられないような死傷者を出した地震でした。
被害の状況が明らかになるにつれ、世界各国から被災者を助けるために人、お金、物資がバムに集まってきました。
日本からも地震直後から様々な形で援助や支援が送られています。話によると、援助額をはじめに表明した額と同じだけ出しているのは日本くらいだとか。
それそのものは約束を守る国であるという信用に繋がることであり、評価すべき点なのでしょうが、その運用の仕方に関してはどうなのだろうと思うことがあります。
一つは、私自身もバムで見聞きしましたし、友人から聞いた話でもありますが、日本の援助・支援団体があまりに現地の人々の習慣や感情を無視した傍若無人なふるまいをしていた(あるいはいる)事についてです。「もう日本人には来て欲しくない」とまで言う人もいて、非常に考えさせられました。
日本のやり方を押しつける。現地の状況を無視した援助物資を持ち込む。援助・支援を受ける人の感情を考えない自己満足な活動をする。等々。
「日本の経験を」という言葉をどれほど耳にし、どれほどそれが嫌がられていることか。イランの内務省で、バムでどれほど「どうして日本は自分たちだけが経験を持っていると考えているのだ?」「現地のことは我々の方が知っているのに」という言葉を聞かされたことか。
全くもってその通りです。反論の言葉もありません。
神戸をはじめとする日本国内でさえ、それぞれの地域でそれぞれの事情や情況があり、全く同じ形の援助や支援ができるということはないはずです。それなのに、どうして「日本は地震に対する経験があるのだから、私たちの言うことを聞きなさい」という態度でイランの人たちに接するのでしょうか?これは傲慢以外の何ものでもないように思います。
今もバムで被災者の支援をしているイランのNGOの人たちが、「3年経ってもまだバムの人のタアッロフってよく分からないわ」とこぼしているとか。
タアッロフというのは色々な意味があるのですが、この場合、例えば、「どうぞ、お茶だけでなくてお菓子もどうぞお取り下さい」とか「どうぞ、私の家で食事をしていって下さい」とお客に何かをすすめたりすることです。
テヘランなどでも、旅行者や知り合ったばかりの人に対して「私の家に遊びに来てください」「どうぞ、お茶でも飲んでいってください」「どうぞ食事でもしていって下さい」「私の家に泊まって行きなさい」等々、様々なタアッロフがあります。
もちろんこれらは心からそう思っている場合もありますが、多くは「そう言わなくてはいけない」という彼らの習慣あるいは文化に基づくものであって、断ることが前提になっています。「ありがとう。でも、これから用事があるので遠慮します」と断って見せ、それでもなお誘われた場合にはじめて、「じゃあ」ということになるのです。これが分かっていない人はタアッロフの分からない野暮な人になるのだとか。
これがテヘランだと、二三度の「どうぞ」「いいえ」というやりとりで本気かどうか分かるのですが、テヘランの人によると、バムの人たちのタアッロフはテヘランよりも熱心に見えるために回数を多く断らなくてはいけないし、それでもまだこれで良いのかどうかと心配になるほどなのだとか。イラン人同士でも、他地域への援助・支援に関してはこれほど気を遣っているのです。
ところが、日本をはじめとする海外の援助・支援グループの人々は、勧められるままにほいほいと被災者の家に上がり込み、貴重な食事を勧められるままに平らげて帰ってしまうのだとか。「J○ICAの人にはもう来て欲しくない」というのはかなりショックな言葉です。
また、イランの人たちは基本的にとても親切で礼節を知る人たちであるため、相手が自分たちに親切にしようとしているのだと分かっていれば、それが自分たちの意に染まない行為であったとしても「ありがとう。とても嬉しいです」とお礼を言ってくれます。それを簡単に丸呑みして「自分たちはすばらしい支援をしているのだ」と考えてしまうのだとしたら、それはあまりにナイーブというか何というか、ちょっと悩ましいところです。
自分の行動が相手にどう見られるか、あるいはどのような行動基準・倫理を持っているのかを把握しないで行われる支援というのは、支援どころが相手に対する迷惑行為になることすらあるのだと現地の人たちの声を聞いていると感じないではいられません。
私がペルシア語を話し、イランの大学を出ているからということでぽろりと漏らしてくれる本音を耳にするたび、あるいはそうした本音をぶつけられた友人や知人から話を聞く度、どうしたものかと気分が重くなります。
自己満足のための、あるいはノルマ達成のための援助・支援ならしない方が良いのかも、と思うこともあります。
家族や親戚、近所の人のために援助物資を受け取りに来たら「何度も来るな」と怒鳴りつけられた。自分は女性だが、医師も通訳も男性だったために言えないことがあった。一回目は親切にしてくれたのに、二回目には「あの人は図々しいから」と会ってくれなかった。自分たちの好きではない音楽や歌を演奏しましょう、歌いましょうなどと押しつけてきた。高度な医療機器をもらったが使い方が分からない。等々。
イランに対して援助を行うのなら、イランについて詳しい人などにぜひどんなことに注意すべきなのか、イランの人が宗教観を含め一般的にどんな考え方をするのか、そういったことをぜひ尋ねて欲しいと思います。イラン人の通訳を使っているのだから大丈夫、と言われたこともありますが、イラン人通訳にとっては当たり前のことで気付かなかったり、あるいは通訳自身が一人のイラン人として遠慮して言えなかったり、また雇用者である日本人に媚びて都合の悪いことは言わないということもあるそうですので、お手軽に済ませようとしないで、様々な形でリサーチは行って欲しいと思います。
初期援助は混乱の中で行われますから色々と仕方がないところはあると思います。しかし、混乱が一段落してからの支援の仕方にはもう少し工夫が必要なのではないだろうかということを、地震のニュースを見ながら改めて考えてしまったのでした。
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イラン人に限らず誰でも、自分たちの祖先が悪の権化や野蛮人であるかのように描かれたら嫌な気分になるでしょう。自分の生まれ育った国に対する、あるいは自分のルーツである土地に対するごく自然の感情だと思います。
私も日本人が一方的に悪であるかのように描かれた映画を見れば良い気分はしないでしょうから、イラン政府やイランのブロガーたちが言うことも理解できます。
この映画がイラン政府などの主張するような「心理的な戦争」のためのものなのかどうかはよく分かりませんが、この映画に限らず、アメリカの善悪二元論的な世界の分け方には正直なところ、疑問を感じますしうんざりする部分もあります。
映画表現なんだから、と言ってしまえばそれまでなのですが、映画の制作者は古代イランについての研究に何も触れることなく脚本を書いたのかな?と少々不思議なところです。イランの長い歴史を見て「血に飢えた野蛮人」であったことはなくて、逆にそういう侵略者の犠牲になってきた部分も大きいように思うのですが。
ところで、イラン二千年の敵の筆頭にあげられている「マケドニアのアレクサンドロス」ですが、実際に、イランの人々が本当にそう思っているのかどうかは少々疑問です。
イスラーム以後の歴史を眺めると、「イスカンダル(アレクサンドロスのアラビア語&ペルシア語風の発音)」という名前を持つ人物はいますし、現在のイランでも「エスキャンダル(イスカンダルの現代ペルシア語風の発音)」という名前を持つ人はいます。古典ペルシア語文学作品においてはいつの間にやら悪の権化から、叡智の化身へと変身し、イランの人々へと語りかける存在となっています。
マケドニアのアレクサンドロス以上にイランに破壊と流血をもたらしたモンゴルの指導者であるチンギス・ハーンも、イランにとっては憎むべき存在であるはずなのですが、「チャンギーズ」という名前の男性は今のイランでも見られます。
イランの人々が強く意識しているかいないかは別として、心のどこかに持っている、「我々は高度な文明と文化を持っていた民族である」という誇りは、それを傷つける存在に対して複雑に働いているように見えます。
相手を悪である、文化を持たぬ野蛮人である、などと徹底的に貶めることで自らのプライドを慰めることもあれば、これほど優れた自分たちを倒したのだからきっと相手も優れた、強い人物であったに違いないとすることもあるようです。
前者の代表がサーサーン朝を倒してイスラームをもたらしたアラブに対してであり、また圧倒的な軍事力でイランを支配したトルコに対してであるように見えますし、後者がマケドニアのアレクサンドロスなのでしょう。
イラン人は野蛮人と蔑むアラブのもたらしたイスラームを受け入れ、その学問的発展に大きく寄与し、異民族の支配者の下で官僚や商人としてその安定に寄与してきました。
また、アレクサンドロスを哲学を深く身につけ、二本の角が生えた「イスカンダル双角王」という一種の超人とすることで、イラン文化、特にイラン文学に寄与させることもしてきました。
そうした歴史を眺めていると、現代的な狭量なナショナリズムや、一方的なグローバリズムというのはちょっと違うよなあと思わずにはいられないのです。
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一時帰国をしている間、何をしているのか。
たいていは人に会うことと写真の整理で終わってしまいます。
友人や仕事相手と会い、そのついでにイランで読むための本を買い込み、家ではただひたすらに写真整理です。
というのも、私が未だに銀塩カメラを使っているために日本では撮りためた写真の現像と、現像のできたポジをフィルムスキャナーにかけてデジタル化するという手間のかかる作業をしなければならないからなのです。
スキャンをした写真にデータをつけて、整理して、ある程度たまったところでDVDなどに落とす。日本滞在の半分はそんな作業で終わってしまいます。
デジカメを使えばこうした作業の何割かは必要なくなることは分かっているのですが、なかなか思い切ってカメラの買い換えができずに何年か経ってしまいました。(コンパクトのデジカメは使っていますが)
まあ、お金がない、というのが一番の原因なのですが、日本にいるとものが色々とあって目移りしてしまうというのも大きいような気がします。
ところが不思議なもので、あれも欲しいしこれも欲しいなあなどと考えているうちに胸一杯になってきて、本当に必要だと考えていたはずのものまで買わずにイランに戻ってしまうこともあったりします。一眼デジカメがそうなのですが。
ということは、本当に必要あるいは欲しいものではなかったということなのかもしれません。
とはいえ、やはり、外出をするとあれこれと欲しいものが出てきてしまうので困ったものなのです。

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この日はイスラームの預言者が聖遷(ヒジュラ)を行った日です。
預言者は生まれ故郷であるマッカ(メッカ)で預言者としての使命に目覚め、布教を行っていました。しかし多神教徒の保守的な勢力が多数を占めていたマッカの街で預言者の言葉に耳を傾けたのは、若者や、社会的に低い階層に置かれた人々ばかりでした。彼らは預言者の高潔な人柄に惹かれ、また、彼の説く全人類の平等の意味を理解することで自分が解放された自由な人間であることを知り、イスラームへ傾倒していきました。
このようにムスリムになった人々は数は多くありませんでしたが、有力者の息子たちなども混じっていました。特権階級を認めないムスリム勢力が大きくなることを畏れたマッカの有力者たちは、預言者をはじめとするムスリムに弾圧を加えるようになりました。
弾圧を避けるため、一部のムスリムはキリスト教徒が多く住むアフリカ大陸へと逃げましたが、多くのムスリムはマッカに留まり、次第に命の危険にさえさらされるようにさえなりました。
こうした困難な情況の中、ヤスリブの町に住む人々が、自分たちの街で起こっている部族対立の仲介を行ってくれるようにと、高潔な人柄で知られていた預言者に申し出てきました。マッカでの布教に限界を感じていた預言者は、ヤスリブの人々の招待に応じ、ヤスリブへと移住しました。これを聖遷=ヒジュラといいます。
これは単純に布教の場所をヤスリブ(後のマディーナ=メディナ)に移したということではなく、それまでの人間関係を全て断ち切り、新たな人間関係を築くということを意味していました。
移住先でムスリムたちは新たに兄弟のちぎりを結び、新たなムスリム社会を作るために一歩を踏み出したのです。
こうしたことから、イスラームではヒジュラを非常に重要視し、ヒジュラが行われた年をイスラーム暦の起源とするようになったのです。これが西暦622年のことでした。
ちなみに、現在のイランで使われている太陽暦も、ヒジュラの年を起源としていますが、完全太陰暦であるため一年が約354日であるイスラーム暦と違い、 太陽暦であるイラン暦は一年が365日(四年に一度閏年を設ける)であるため、今年はイスラーム・ヒジュラ暦では1428年であるのに対し、イラン暦は 1386年とずれが生じています。
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この日はイスラーム12イマーム・シーア派第8代目イマーム・リダー(ペルシア語ではレザー)の殉教日です。
イマーム・レザーは、イスラーム・ヒジュラ暦148年ズィー・カアダ月11日(西暦765年12月29日)にアラビア半島のマディーナ(メディナ)で生まれました。
彼はアリーと名付けられましたが、現世において与えられたもの全てに満足をして暮らしていたため、リダー(満足)という称号で呼ばれ、知られるようになりました。
彼は7代目イマームであった父ムーサーの死後、イマームの位を継ぎました。
彼のイスラームに関する広く深い知識はイスラーム世界に広く知られ、また、その性格の穏和さもあって、人々に広く親しまれていました。
イマーム・レザーはメディナで人々にイスラームの知識を教えていましたが、アラビア半島から遠く離れたイランのホラーサーンの地のシーア派の人々は、イ マームの持つ知識を直接その地に広めて欲しいと願い、イマームのもとへと使者を送り、イマームにホラーサーンを訪れて欲しいとの願いを伝えました。
イマーム・レザーはホラーサーンの人々の願いに応えようと思いましたが、その当時、イスラーム世界を支配していたアッバース朝のカリフ・マアムーンは、 ホラーサーンの人々がイマーム・レザーを中心に団結し、イマームを押し立てて反乱を企てるのではないかと恐れ、イマームがホラーサーンを訪れることをやめ させようとしました。
しかし、イマーム・レザーはカリフ・マアムーンとの交渉の末、いくつかの条件に従うことでホラーサーンに向かうことを得ました。
ホラーサーンのいくつかの街でイマーム・レザーは大歓迎を受けました。イマームはイスラームに関する知識を人々に教え、人々はイマームの周囲に集まり、その教えを請いました。
こうした情況を知り、カリフは人々の勢力がイマームを中心に反乱勢力となることを恐れ、ヒジュラ暦の203年のこの日、イマームを暗殺しました。(西暦818年9月5日)
イマームの遺体はある小さな村〜現在のマシュハド〜に葬られました。

イマーム・レザーは現在のイランの領内にその墓がある唯一のイマームです。他のイマームたちの墓は、サウジアラビア、イラク領内にあり、イラン人にとっ て簡単に訪れることができません。そのため、イランやその周辺諸国の人々にとって、マシュハドのイマーム・レザー廟は最も身近なイマーム廟であり、マシュ ハドへの巡礼が盛んに行われています。
イマーム廟を訪れると、近隣諸国からやって来た巡礼者たちが様々な言葉でイマームに願いを伝えているのを見ることができますし、廟の近くにあるおみやげ物屋などでは国へのおみやげを買う各国の人々の姿を見ることができます。

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個人的にちょっと寂しいなあと思う変化の一つが、チェシュメ・アリーでの絨毯洗いについてです。
テヘランという町はガージャール朝という現政権の二代前の王朝が首都と定めたことによって大きく栄えることになったもので、200年くらいの歴史しかありません。
現在のテヘランの南部に『シャフレ・レイ』と呼ばれる地区がありますが、こちらは紀元前からの歴史を持つ古い町です。テヘランが膨張してこの町を飲み込んでしまったために、今ではテヘランの一部となってしまいましたが、こちらの方が本来は古くて歴史のある町なのです。
イランやアラブの古い時代の学者で「〜ラーズィー」という名前を持っている人は大抵この町の出身です。
この町に『チェシュメ・アリー(アリーの泉)』と呼ばれる泉があります。アルボルズに降った雨や雪解け水が地下を通り、地上に現れたのがこの場所で、古くからレイの町を潤してきたと考えられています。夏でも枯れることはない貴重な水源です。

このチェシュメ・アリーでは毎年ノウルーズの前になると、泉の近くに住む人々が絨毯などを泉に持ってきて洗う絨毯洗いが有名でした。

泉の岸で絨毯を洗い、泉の背後の岩に絨毯を貼り付けて乾かす光景はレイの町に春の訪れを告げる一種の風物詩でもあったと聞いています。

このチェシュメ・アリーですが、この数年、泉の背後にそびえる岩の上に文化財保護庁が面妖な城塞を建設し、市役所は泉の周囲に柵を作り、噴水を三方から吹き出させることで人が泉に立ち入らないようにしてしまっています。
そのため、ノウルーズ前の絨毯洗いはほとんど行われなくなってしまったと住人は話しています。何とも残念な話です。

泉の使用ができなくなってしまった理由はいくつかあるようです。
アルボルズからレイへと続く地下水脈が、テヘラン市の下を通るときに下水の不備から汚染されてしまっていて、その水を使うことが危険だからというのが一つ。それから、洗剤をばんばんと使って絨毯などを洗うことで水源が更に汚染されてしまうことを防ぐためというのがもう一つ。その他にも色々と理由はあるのでしょうが、私が耳にしたのはこの二つが主でした。
正直なところ、泉での洗濯を禁じたところでそれぞれの家で洗濯を行えば、下水施設が未整備なこれらの地域では結局排水は垂れ流しで、水や土壌の汚染を行っていることには代わりがないのでは?と思うのですがどうなのでしょう。
話が少し変わりますが、自分で絨毯を洗うのが面倒だ、あるいは時間がなくてできないという人たちのために絨毯洗いの業者も沢山あります。
ところがこの業者。信頼できるところを選ばないと、絨毯を集めるだけ集めて行方をくらましてしまう場合もあるのだとか。手織りの品質の良い絨毯は、中古であってもかなり良い値段で売れるためにそういうことが起こってしまうのです。
また、あまりぎりぎりになってから洗濯に出すと、ノウルーズまでに間に合わず、絨毯なしの寂しい正月を迎えなくてはならなくなってしまうこともあるのだとか。
私は年末に忙しく、絨毯を洗う暇もありませんでしたので、ノウルーズが明けてから、誰かに手伝ってもらいながらのんびりと絨毯洗いにいそしもうと考えているところなのです。
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この日はイスラームの預言者ムハンマドが死去した日であり、シーア派第二代目イマーム・ハサン・ムジュタバーが殉教した日でもあります。
預言者ムハンマドは、マッカ(日本ではメッカ)で生まれ、イスラームの布教活動を行っていましたが、布教を始めた当初は多神教徒である住民たちに迫害を受け、ムスリムたち が生命の危険にさらされるようにすらなってしまいました。そこで、一部の信徒をアフリカ大陸へと移住させたりしましたが、多神教徒との争いはエスカレートするばかりでした。そこで、以前から招待を受けていた、ヤスリブ(後のマディーナ、日本ではメディナとして知られる)へと逃れることにしました。これは西暦6222年のことであり、イスラームはこの年を暦の起点としています。それは、この年がイスラームにとって大きな転機となった年だからです。
ムハンマドはマディーナで徐々に信徒を増やし、兵力に勝るマッカの軍隊とも対等に渡り合い、ついには和議を結ぶに至りました。そして、ヒジュラ暦11年 に預言者は、最初で最後のマッカ巡礼を行いました。現在、全世界のムスリムが巡礼の際に行う儀礼は、この時の預言者の巡礼のやり方に準じているものです。
預言者は、マッカからマディーナへと戻る道中で、付き従っていた信徒たちに最後の説教を行い、マディーナに戻ってまもなく病を発し、晩年の愛妻アーイシャの膝で亡くなりました。(西暦632年5月25日)
預言者はアーイシャの家の中に葬られたとされていますが、今ではその場所ははっきりと分かっていません。現在、預言者の墓と伝えられている場所があり、巡礼にやってきた信徒たちが訪れていますが、本当に預言者のものかどうかは分かっていません。
イスラーム・ヒジュラ暦49年、預言者が亡くなった日とまさに同じサファル月の28日、(西暦669年4月7日)、預言者の孫に当たる、ハサン・ムジュタバーが殉教したと言われています。
ハサンは、預言者の末娘ファーティマと預言者の従兄弟アリーの間に、イスラーム・ヒジュラ暦3年あるいは4年に生まれたとされる長男です。初孫であるハサンを預言者は特にかわいがったと伝えられています。
第四代目ハリーファ(シーア派にとっては初代イマーム)である父アリーの死後、ハサンはアリーを預言者の正当な後継者と信ずるイラクの民の指示を得て、 ハリーファ(カリフ)を名乗りました。しかし、その勢力は、アリーの政敵であり、その当時イスラーム世界の政治的・軍事的実権を掌握していたムアーウィヤ には及ばず、最終的に、ハサンはムアーウィヤから年金を受け取ることでハリーファの位を彼に譲ることにしました。
シーア派にとっては、ハサンはアリーの後継者であり、無謬の人ですが、歴史的には、享楽的で、政治にはあまり興味のない優柔不断な人物であり、弟のフサインとは折り合いが悪かったと伝えられています。また、彼は妻を得ては離婚するということを繰り返したため、「離婚者」という異名を持っていたとも言われ ています。
彼は45歳頃に病死したと言われていますが、シーア派の伝承では、ムアーウィヤが毒殺したということになっています。
息子がいなかった預言者ムハンマドの血統は、末娘のファーティマを通して伝えられることが神によって保証されたとされており、ファーティマが産んだ二人の息子、ハサンとフサインの子孫はイスラーム世界では「サイイド(イランではセイエド)」と呼ばれ、預言者の血を引く人として敬意を払われています。

これはセイエドの墓。
イランではセイエドはこの墓のようなセイエド・カラーである緑色を身につけるなどしてセイエドであることを示す。
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イランで色々と忙しくしていた疲れもあるのでしょうが、気圧のためというのもあるようです。
テヘランは海抜1000メートル以上ある場所で、私が住んでいた新潟平野や関東平野のような海抜の低いところに比べると気圧が低く、眠りにくくなったり眠りが浅くなったりするのだそうです。
そのため、イラン国内でもカスピ海岸やペルシア湾岸のような0メートル地帯へ行くと本当によく眠れます。旅行をしに来たのか昼寝をしに来たのかと思わず笑ってしまうくらいです。
ところで、先日、チャハールシャンベ・スーリーの夜にテヘランを出発しました、と書きましたが、「チャハールシャンベ・スーリー」って何?というご質問がありました。
チャハールシャンベ・スーリーについては一昨年の様子をご紹介していますのでそちらをご参照下さい。こちらからどうぞ。
人々が外に出て火を焚いたり爆竹を投げ合ったりするのですから、例年この日の日が落ちてからの市内は大渋滞で、自動車での移動はまずできないと覚悟した方が良いくらいでした。
その体験から日がまだあるうちに空港へ向かったのですが、日本に戻ってからテヘランに住む方からもらったメールによると、今年は政府の規制があって例年に比べると随分とおとなしいチャハールシャンベ・スーリーだったとか。ちょっと意外でした。
このチャハールシャンベ・スーリーという行事はゾロアスター教に由来するもので、祖霊を正月の間家に迎えるためのものが始まりだったとか。
起源がイスラームとは全く関係ない上、人々が夜になってから外に集まることから反政府活動に利用されるのではないか、また治安上の問題もあるしということから革命後しばらくテヘランなどをはじめとする都市部では、チャハールシャンベ・スーリーの行事は禁止されていたとか。もちろん、禁止されているからといって唯々諾々と従う人たちではありませんでしたが。
どういう経緯で規制が行われるようになったのかはまだよく分からないのですが(イスラームに関係がない行事だからとか人が沢山集まることに対する警戒からとか、火を扱うため危険であるからとか暴動に発展しないようにだからだとか色々聞いていますが)、人々の楽しみがまた権力によって禁止されることのないように、そして人々の側も死者やけが人を出すような羽目を外しすぎないように、楽しい年末が送れるよう願ってやみません。実際、爆竹を投げつけられるのはかなり怖いのです。

一年の汚れを洗い落とし、干されている絨毯はこの季節のイランの風物詩。
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正月休みを利用しての一時帰国なのですが、短期間だけにばたばたの日本滞在になりそうです。
ばたばたの予兆は出発当日から漂っていました。
まず、出発当日の昼まで授業があり、更には午後三時から仕事の打ち合わせという妙にタイトな当日スケジュールが不安を誘います。
チャハールシャンベ・スーリーのため日が落ちたらテヘラン市内を抜けることが困難になるだろうと、仕事の打ち合わせにはスーツケースを持って向かうことに。
ということで荷造りを始めたのですが、スーツケースが埋まらなくて困ってしまいました。もともと日本へ行くときは荷物が少ないのですが、今回はおみやげを買う暇もなかったため、何を入れたら良いのやらと途方に暮れることに。
4時前に打ち合わせが終わって空港へ。
フライトは9時20分なのでとんでもない事態が起こらない限り余裕で間に合います。
あまり早い時間についても退屈な空港だからなあと心配していたのですが、到着してみたら空港に無料の無線ランが登場していてびっくりでした。メールのチェックなどをしながら時間つぶしができたのは何とも嬉しい進歩でした。
ところが、いざチェックインが始まってみたら何ともびっくりするような事態が待っていたのでした。
一週間ほど前に帰国した知人から、「空港のシステムがダウンをしていたために大変な混乱があり、手書きのボーディングパスを渡されてびっくりした」という話を聞いていたのですが、それがまだ続いていたのか、「ドバイからのチケットはドバイで受け取りなさい」と、『ドバイまでの手書きのボーディングパス』を渡されてびっくりです。「あ、荷物はちゃんと大阪までスルーだから」と言われても「はああ?」という感じです。荷物が大阪まで行くなら、私のチケットも大阪までにはならないの?と疑問が浮かびますが、仕方がありません。空港職員も慣れていたのか、スムーズに手続きが進んでいたことはまあ助かったのですが。
それにしても、あれだけ何を入れて良いのかと困っていたスーツケースが結局26キロにもなっていたというのは何とも不思議なことです。
ドバイでのチケットの受け取りは特に問題はなかったのですが、日本の団体さんが遅れているとのことでなかなか出発ができず、結局1時間近く遅れての出発。
出発が遅れるということは到着も遅れるということで、関空に到着すると、空港職員に「羽田への乗り継ぎ便の人は急いでくださ〜い」とせかされることに。
それにしても、到着してみたら暖冬だと聞いていた日本は肌寒くて、暖かくなり始めていたテヘランから来た身にはちょっと堪えるなあという感じだったのでした。ついでに、花粉も飛散量が少ない予想と聞いていたのですが、それでもやっぱりくしゃみと目のかゆみは止まらず、これもちょっと辛いところです。
でもこの冷え込みのおかげで、桜をゆっくりと楽しむことができそうなのがちょっと嬉しいところです。
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ノウルーズ(正月)を迎えるために家の大掃除をするため、あちこちで絨毯などの敷物が屋上やベランダから干されるようになったり、正月用品を買ったりする人でバーザールが大混雑だったり。いかにも年末のあわただしい雰囲気が町に溢れています。
もちろん、正月用品はバーザールだけではなく町のあちこちでも売られています。
イランの正月を飾るのは「ハフト・スィーン」と呼ばれる飾り物と金魚。
金魚が町のあちこちで売られるようになると「ああ、ノウルーズが来るんだなあ」と実感します。

そしてハフト・スィーンの一つ「サブゼ(新芽)」も並ぶようになり始めました。

そして私はといえば、早く授業を終えて実家に帰省したり旅行をしたい学生たちと、いつまで授業をやるかで大議論です。
以前にも書いたような気がするのですが、休みたいなら休んで結構、すべて自分の責任でしょ?どうしてあなたたちが先生に対して「授業をするな」と命令するの?というのはイランでは(あるいはテヘラン大学の外国語学部では)通じないようです。
なんだかなあとため息をつきつつも、春らしい天気と、ノウルーズ前の楽しそうな街の様子に私もなんとなくうきうきとした気分になるのでした。
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イランの偽ブランド商品をプレゼントしたいという留学生にウケながら、あれこれと見て歩き、決めたのがこれです。

「偽」グッチのキーホルダーです。
しかも箱は「ブルガリ」という豪華版です。
グッチの箱が見あたらなかったらしく、ブルガリの箱に入れようかどうしようかと考えている女性店員に、私たちは「そうそう、そのブルガリの箱に入れて」と念じてしまいました。
女性店員は一応気になったのか、「これ、ブルガリだけどどうしよう?」と、店長に確認を入れることに。私たちは、「だ〜か〜ら〜。そのブルガリのがいいんだってば〜」と、内心はらはらです。
そこへ店長の鶴の一声。
「ふぁるぐ・ねみーこね!(一緒だって!)」
私たち二人は心の中で思わず拍手喝采しながら踊ってしまうくらいに感激してしまいました。
なんたって、「ふぁるぐ・ねみーこね」です。
イランの人にとってブランドってやっぱりそんなものなんだ〜と、ほくほくと家路についた二人だったのでした。

テヘラン州はなにげに広い。
標高二千メートルを超えて未だに雪が積もる山間の村もあれば、標高千メートルを切り、ぽかぽかとした日射しの中で農作業が勢いよく始まっている村もあったりします。
上の写真は数日前に行った村での一枚。
冬の間たっぷりと羊毛と皮下脂肪を蓄えてころころとして見える羊たちが、生まれたばかりの子どもたちと一緒にのんびりと草を食べていました。
羊たちが食べている草は、前日に降った雨のしずくに濡れていておいしかったに違いありません。
揚水場から畑へと水は流れ、作物が芽を吹き、農作業をする人たちがシャベルを持って行き交う。そんな活気に満ちた農村が、夏になって水不足に困らないで済むよう願います。
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またまた電話回線が切れて三日になります。
雨が降ったり雪が降ったり風が吹いたりする度に切れる電話回線に、アパートを変わることを真剣に考えたことも何度かありましたが、引っ越しのあれこれに関わる面倒くささに断念していました。
今回の断線は、電話線のケーブル交換工事のためなのだそうですが、ケーブルの交換に三日もかかるものなのでしょうか。
「光ケーブルになるそうだから、これまでに比べるとずっと良くなるはず」と大家さんは言いますが、アパートまでは光ケーブルが来たとしても、そこからアパートまでが以前にままだとしたら何の意味もないのでは?と、少々懐疑的になっています。
三日も断線されると何が困ると言って、メールのチェックができないことです。ブログの更新はしばらくサボっても問題ありませんが、様々な連絡がメールでやりとりされる今日この頃では、メールのチェックができないのは致命的です。近所にネットカフェがないのも辛いところです。
それにしても、三日も電話が使えないとなると、イランの人たちのストレスは大変なものになるのではないだろうかと心配になってしまいます。イランでも携帯電話が大分普及してきているとはいえ、まだ日本ほどではありませんし。
イランの人たちはこれまでにもご紹介してきたようにとてもおしゃべりです。
そして電話魔でもあります。
暇があると家族や親戚、友人などに電話をして「チェ・ハバル?(どうしているの?)」です。
何か用でもあるのかな?と思っていると、特に何か話をするわけでもなくお互いの近況報告だけして「じゃあね」です。
公衆電話でも「お父さんは元気?お母さんは?兄弟は?」と延々と電話相手の家族の様子を聞いているのを見ると、なんだか微妙な気分になってしまいます。携帯電話を持っている人はなおのことです。そのため、携帯電話回線使用料がとんでもないことになって青くなるという人も多いようです。そのため「アフバール・ポルスィー(近況を尋ねること)は携帯電話ではやめておくわ」という友人もいました。
とにかく、用があろうとなかろうと電話をする。そんな感じですから、私など、特に用もないのに電話をするのも、などと遠慮をしたり、忙しさに取り紛れたりしているうちに二週間も三週間も経ってしまい、久しぶりに友人に電話をすると大抵「何をしていたの?どこにいるのよ」と言われてしまいます。
用があるからないからではなく、コミュニケーションを常に持ち続けることそのものが重要だと考えられているのだなあと、イランに来てまだ間もない頃の私はびっくりしたのでした。
関係ありませんが、イランでは電話を切る前に、電話をかけてきた方が「何か用はある?」と言ってから会話をやめます。
イランに来たばかりの頃は「あなたが用があるから電話をしてきたんじゃないの?」と、とても違和感を感じたものでした。今は、電話を切る前の挨拶に過ぎないのだと思っているので気になりませんが、習慣というのは色々だよなあと強く思った事の一つだったのでした。
それにしても、電話ケーブルの交換というのは三日もかかるものなのでしょうか?昼間しか作業をしないというのも問題なのかもしれませんが、日本などで三日も電話が切れていたら苦情が殺到するだろうなあと思うのですが、どうなのでしょうか。
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今年も何人もの友人知人、先生方が次々といらっしゃいます。
我が家にもこれまでに何人かの友人たちが泊まりに来ました。
現在は、salam×2のお二人が仕事のために滞在中。
このようにイランを訪れる人たちを見ていると、短い滞在期間の間に効率よく仕事をするのは大変だよなあと思わずにいられません。
久しぶりに会うイラン人の友人たちは「うちへ昼食・夕食を食べに来なさい」と必ず誘ってくれます。そうした招待はとても嬉しいものですが、短い滞在期間にすべての招待に応じるわけにいきません。
必然的にお呼ばれの数をしぼらなければなりませんから大変です。
お断りをせざるを得なかった人はがっかりしますし、「どうして来られないの」と文句の一つも出てしまうという人もいたりします。
効率が良いと言えない仕事ぶりの役所や、人のつながりで仕事が上手く進む国では、どうしても友達を優先できないときがあるんだよなあと、短期滞在の難しさを感じてしまうのでした。
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気がついたらもう3月になっていました。
ばたばたと忙しく、仕事が全然終わりません。困ったものです。
2月が28日しかないということは分かっていたはずなのですが、なぜか「まだ3月まで何日かあるな」と2月26日の段階で考えていました。
このうっかりのおかげで、2月一杯と言われていた仕事に遅れを出してしまい真っ青に。
この週末は、机に張り付いていなくてはなりません。自業自得なんですけど。
そういえば、雨か雪に降って欲しいと書いた次の日にテヘランは雨が降り出し、更にその次の日は雪になりました。その翌日には晴れて、我が家の周辺の雪はすっかり溶けてしまったのですが、恵みの雪になったならいいんだけどなと思います。
上の写真は内容と何の関連もないのですが、まあ、何となく。
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