確かにつづり間違いなのですが、イラン的には間違いではない、というか、あえてイラン風の間違いにしてあるものなのです。

イランで「ようこそ」は「khosh amadid」と言います。それぞれのペルシア語を英語に置き換えると、「khosh=well」「amadid=you came」にあたるので、ついつい間違えてしまうのでしょうか、イランを歩いていると、あちこちで「well come」に出会います。あまりの多さに、実はこれが正しい綴りなのでは?と思ってしまうほどです。そういえば、wellとcomeの間は必ずスペースが入るのも特徴です。

写真上:ガズヴィーン市で。ちなみに、現代ペルシア語では、Qの音がGhに変化している。
写真下:ホメイン市で。これまた綴り間違い。
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「これまでのイラン生活で、一番絶句してしまった体験というのは何ですか?」
思わず絶句してしまうような体験といってもいろいろと種類があります。研究上のこと、絶句するような光景などなど。
そんな中から、ベスト5には入るだろう体験のお話を。
私は自分一人でもイラン国内をあちこち回っていますが、調査や取材の通訳やコーディネーターとして、記者や研究者の方たちのお供をすることもあります。
イランは取材や調査に対して非常に神経質で排他的なのですが、きちんとした許可書を持っていたり、しかるべきところからの紹介があったりすれば、かなり友好的に協力してくれます。
ある日本の研究者がイランの僻地の医療について調査に来たときのことです。
医療調査ですからまず、テヘランにある保健衛生省から目的の州への紹介状を発行してもらいます。そしてそれからその州の中央支部から郡の支部へもう一度紹介状を発行してもらい、ようやく目的の郡部に到着です。
イランがすごいな、と思うのはこういうときです。
調査のための手続きはかなり煩雑ですし面倒なのですが、実際に現場に出ると、担当の支部の人たちが非常に良く手助けをしてくれるのです。案内のために誰かをつけてくれ、自動車も用意してくれ、食事も私たちにお金を出させません。宿まで手配してくれる場合すらあります。ずっと付き添ってくれた担当者に、手間をかけさせたからとお礼のお金を包んだり、おみやげを渡してもまず受け取ってくれません。
と、通常ですと、こちらが恐縮してしまうくらいに調査に協力してもらえるのですが、どんなことにも例外はあります。
ある保健衛生省の支部を訪れたときのことです。
調査目的と方法について説明し、それでは翌日の早朝に出発しましょうということになりました。
翌朝、支部が用意してくれた自動車に乗って出発しました。運転をしてくれたのは支部の責任者の一人で、この時点では我々は、なんだか申し訳ないなあと思っていました。
なんだかちょっと変かなあ?と思い始めたのが、調査とは関係のない、行政関係の役所を訪れたときでした。我々に同行した保健衛生省の役人は、我々をそっちのけで行政府の役人たちと話をしているのです。何だろう?と不思議な感じはしました。
と、不思議な訪問に時間を取られ、目的地に着いたときには昼近くになっていました。目的地でも、保健衛生省の役人は村の中をあっちへ行ったりこっちへ行ったり落ち着きません。挙げ句の果てに、ある村人の家に我々を置き去りにしてどこかへ行こうとします。さすがにこれは変だぞ?と確信し、どこへ行くつもりなのか問い詰めました。すると、なんだかしどろもどろに、「この村の奥にいるクルド人のテントに行く」と言います。
我々は思わず絶句してしまいました。
遊牧民のテントを訪れたことがないという彼女は、村の中に残されるよりはクルド人のテントへ行きたいというので、役人にくっついて行くことにしました。
クルドのテントに到着して、役人はなにやら男性たちと話をし、我々を女性たちのところへ連れて行きました。そして男性たちと姿を消してしまいました。
それから彼は延々3時間姿を消したままに。
周辺を案内してくれた子供たちからいろいろ聞き出したところ、我々に同行してきた役人は、行政府の役人たちと山で狩猟をしているということが明らかに。クルドの男性たちは案内人だったのです。
結局、その後、調査どころではなく、我々は帰らざるを得ませんでした。
我々はあきれ果てて、文句を言う気にもなれませんでした。
支部の前で別れ際、しゃあしゃあと「今回の調査が満足のいくものであったことを願っています」と言うのに対し、「そうですね。あなたにとってはとても満足のいく調査だったでしょうね」と返したのがやっと。
後にも先にも、こんなことをされたのはこのときだけですが、それだけに忘れがたい思い出となっています。
別に調査に便乗しなくても、休日にゆっくり狩りをすればいいのにと思うのですがどうなのでしょう。もし彼女が、テヘランの本省に告げ口をしたら、と考えなかったのかなあというのは今でも不思議です。
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写真を整理しているとやたらと目につくのが八百屋の店先のバナナです。
店先にディスプレイ(?)されているバナナを見ると、どうも撮らずにはいられないようです。
イランではバナナは比較的高級な果物でした。今はどうか分かりませんが、バナナはイランでは栽培されておらず、イラクなどから持ってくるために高いのだと聞いたことがあります。
お客様がいらっしゃるときは果物とお菓子でもてなしますが、こういうときにバナナは必ずといって良いほど果物の盛り合わせの上に燦然と輝いていて、お客様にまずサービスされます。
最近では値段も下がってきていて、以前ほど高級というイメージではありませんが、それでも、他の果物に比べると少々お値段がはるようです。

イランのバナナは、こうして店先に吊されて売られています。
バナナの保存法から見るととても理にかなっていて、なおかつディスプレイとしての機能も果たしているのわけですからすてきです。
ディスプレイ方法も、店によってこだわりがあるらしく、軒先に一列に吊していたり、縦に吊していたりいろいろです。
こうしたディスプレイにつられて、ついついイラン各地のバナナディスプレイの写真がコレクションされてしまうのです。

写真上:テヘラン北部、タジュリーシュのバーザールの中にあった今はもうないバナナ専門店。
写真中:テヘランからカスピ海方面への街道沿い、ジーラルドの町の八百屋。トウモロコシがアクセント。
写真下:カスピ海沿いの町、トネカーボンで。アットランダムな感じが素敵。
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10年になるイラン滞在の中で撮りためた写真はかなりの数になり、はじめの頃はまったく整理などしていなかったため、これはいったいどこで撮ったのやらという写真も山のようにあります。また、こんな写真を撮っていたのかと自分でもびっくりするような写真もあったりして、大変でありまた楽しくもある作業です。
テヘランは激しく変化を続けている町で、私が暮らし始めた10年前から見ても随分と様子が変わっているのが写真からもよく分かります。
そんな写真からの一枚です。
テヘランで暮らし始めて割とすぐの頃、おそらく9年前くらいの写真です。

「トルコに死を(marg bar Torkiye)」
だそうです。
「アメリカに死を」「イスラエルに死を」というのはイランの政策上不思議ではないのですが、特に政治的に悪い関係ではないはずのトルコ共和国に対してどうして死を与えなくてはならないのかかなり不思議な落書きです。個人的な恨みでもあったのでしょうか。
友人にこれを見せたところ、「NIOG(イラン国営ガス)の人じゃないの?」と大笑い。
イランはトルコに天然ガスを輸出しているのですが、トルコはしょっちゅうその代金を踏み倒しているのだそうです。踏み倒し、輸出停止、協議、一部支払い、輸出再開というサイクルをもう何年も繰り返しているのだとか。
また「アルメニア人じゃないの?」という意見も。こちらはかなり深刻な話になります。
1915年にトルコで起こったアルメニア人虐殺に対する抗議ではないかと。詳しい説明は省きますが、このとき、150万人(アルメニア人の主張による。 70万人という説も)のアルメニア人が虐殺され、生き残った人たちもトルコ近隣諸国へと移住せざるを得ない状況となりました。今でもイラン国内のアルメニア人は、毎年、トルコ共和国に対しての抗議の行進を行っています。
ちなみに、落書きの上にある看板は、歯医者さんのもので落書きとは全く無関係です。
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シーア派ムスリムの墓地へ行くと、墓にろうそくを灯す台が設けてあったりランプが置かれていたりすることがよくあります。
イランのシーア派ムスリムの間では、死者の魂は木曜日の午後に家族の許へ帰ってくると考えられており、この死者の魂のためにろうそくを灯したりランプに火を入れたりするのだとか。

そしてイラン各地にある聖者廟でも火は大切な役割を負っています。
何か願い事のある人は自分が信頼する聖者廟へと行き、そこでランプあるいいはろうそくを灯し、自分の願い事をそこに葬られている聖者を通して神へと届けてもらうのです。
イランを歩いていると、訪れる人が減り、ぼろぼろになった聖者廟を見かけることがあります。どう見ても廃墟以外の何ものでもないように見える。そんな場所でも、ランプやろうそくが灯されていてびっくりすることもしばしばです。
そうした光景を見ると、聖域で火を灯すことが人々の信仰を表す素朴な一つの手段なのだということが感じられ、何となくほっとするのです。

写真上 テヘランの共同墓地で。墓の上に置かれたランプ。木曜日には家族が訪れ、このランプを灯すのだろう。
写真中 聖者廟の中に灯されていたランプ。ランプも灯油もこの廟に寄進されたもの。願い事のある人が訪れ、そこにあるランプに火を入れる。
写真下 聖者廟の中に灯されていたろうそく。
いわゆるお盆(旧盆)にあわせての夏休み。今の日本では、どのくらいこの盂蘭盆の行事が行われ、また意識されているのでしょうか。
ところでこの盂蘭盆会、日本の学者先生や小説家の一部はイランの古い宗教の一つ、ゾロアスター教が起源だとしているようです。
それが本当かどうか、私には判断をすることはできませんが、確かに表面的なところだけを見れば似ているように見えないでもない部分はあるようです。とはいえ、私もゾロアスター教の風俗習慣、儀礼に精通しているわけではないですからあくまで印象に過ぎませんが。
困ったことに、資料がどこかに埋もれてしまって見つからないので、あやふやな記憶を頼りにしなければなりません。説明に間違いがあるかもしれませんがお許しください。
盂蘭盆に影響を与えたと言われる行事ですが、ゾロアスター教では新年を迎えるための行事だったはずです。
以前お話ししたことがありますが、イランには新年を迎える前の水曜日の夜(日本風に言うなら火曜日の夜)に火をたいてその上を飛んで、来たる年の無病息災を祈るというチャハールシャンベ・スーリーという行事があり、イスラームとは全く関係のない、ゾロアスター教起源の行事ですがムスリムのイラン人も行っています。
ゾロアスター教ではこのチャハールシャンベ・スーリーは、一種の祖霊であるフラワシを家に迎え、ノウルーズ(正月)を祝う準備をするというとても大切な行事です。
ノウルーズの五日前(だったはず)に器に火を炊き、それを屋根のひさしの上に乗せ、フラワシが天界から家に帰ってくるための目印とします。そうして家に迎えたフラワシと共にノウルーズを過ごし、またフラワシを天界へと送り出すのです。

盂蘭盆という言葉も古いインド・イラン語に由来するという説もあるようなのですが、こちらは記憶が相当にあやふやなので説明は割愛させていただきます。きっとネットを調べると見つかるのでしょうが、アレルギーでティッシュが手放せない今はちょっとこれ以上ディスプレイに向かうのは無理なようです。興味のある方は調べてみてください。

写真上 ゾロアスター教徒が使う火鉢。彼らは毎日、家の一角で火を焚き、香草を燃やして家の中に悪が入らないようにする。
写真下 ゾロアスター教の聖地で消えることなく灯される火。

このところ、ちょっとまじめな話が続いたのでちょっと気分転換。
夏の花、ひまわりです。
ペルシア語では A:ftab-gard:n。アーフターブは太陽でギャルダーンは回転の意味。日本語のひまわりとほぼ同じ意味になるようです。
コルデスターンからアゼルバイジャーンで多く栽培されていて、この季節、一面のひまわり畑を見ることができます。
もちろんそれ以外の地方でも、畑の片隅に植えられたりしていて、色鮮やかな姿を見せています。花が終わった後、農村の子供が、花を首のところから切り落とし、それを抱えながら種をぽりぽりと食べているのを見ることがありますが、塩味をつけてない種はおいしいのでしょうか。
それにしても、こちらの人はひまわりやカボチャ、スイカの種をよく食べます。私の知人など、「気がつくと1キロくらい食べちゃうのよね〜」と笑っていますが、塩分とカロリーを考えると、なんだか体に悪そうです。
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広島と長崎の原爆の日の記念式典の様子は、イランでも毎年報道されていますし、広島と長崎でいかに多くの人が原爆で亡くなったかということはいろいろな場所で語られており、イランの人にとって、日本の地名の中でも「ヒロシマ」と「ナガサキ」はよく知られたものの一つであると言えます。
原子力爆弾が使われると何が起こるのか、それが一瞬のことでは終わらず、何十年もの間被爆した人々を苦しめることになるということをイランの人々に伝えるため、原爆投下や核兵器を持つことを否定するのでしたら、イランでこれほど「ヒロシマ」「ナガサキ」が語られることをうれしく思うのですが、実際にはそうでないように感じられるため、テレビを見ながら複雑な気分を味わうことになります。
私の思い違いかもしれませんし、ひねくれた考え方なのかもしれませんが、イランでは、「アメリカが原爆を投下して日本人を大量に殺したこと」を何よりも非難します。
それ自身は決しておかしなことではないように見えますが、どうしても「アメリカが」という部分が強調されているように思えてならないのです。つまり、「敵国であるアメリカ」を非難するための道具として「ヒロシマ」「ナガサキ」の名前を利用しているように見えるのです。アメリカ以外の国が原爆を投下したのだとしたら、イランはこれほどまでにヒロシマやナガサキに関心を持つだろうか?と思わずにいられないこともしばしばです。
イランでは核開発関連ニュースを報道する際に必ず、「核の平和利用開発」と言います。自分たちはアメリカと違って、核を平和利用のために利用するのであって、兵器を作るためではないということを強調するためです。もしかしたらイラン政府は本当に核兵器を作るつもりはないのかもしれません。しかし、それはイラン人〜政府中枢にいるごく一部を除く〜にも外国人にも、本当のことなのかどうか確かめる手段はありません。
冷戦時代、東西両陣営は核を互いに持つことで抑止力が生まれると言い続けていました。イランが同じ理屈で、核兵器を持つことも抑止力を生み出すための平和利用だと言うことだってできるかもしれません。実際、そういう論調を目にすることがあります。
それから、少し話がずれてしまうかもしれませんが、アメリカでは今でも、戦争を終わらせるためには核を投下する必要があったのだから、核の投下は正しかったという人が多くいます。戦争を終わらせ、平和をもたらすために核兵器が必要だ、と言うことが論理として正しいのなら、それは核の平和利用だと言うことができるかもしれません。
そういえば、広島市長などからの核開発に関する平和のメッセージに対して、イラン政府が何か回答を示したというニュースは聞きません。都合の悪いことは聞かないふりなのかな?とついつい勘ぐってしまいます。
イラン国内では、「アメリカが原子力爆弾を日本に投下したことは非難されるべき行為である」という言葉は聞きますが、実際に原爆が投下されると何が起こるのか、どうして核兵器の使用に反対しなくてはならないのかという部分はほとんど報道されていないように感じます。平和運動に取り組むグループなどが、資料写真の展示をイラン国内で行うという取り組みが始まったとは聞いていますが、イランの多くの人は核の危険性についてまだよく知らずにいるように見えます。「我々もウラン濃縮技術を手に入れた!イランはすばらしい国だ!万歳!」という雰囲気があふれているのが実情であり、大学で、被爆の問題について話しても、その意味をほとんど理解できない学生が多く、驚くほどでした。
今年、広島で行われた式典で読み上げられたこども代表による「誓いの言葉」を読みました。イランでも、ぜひ、一人一人がこの言葉を読み、平和の意味を考えて欲しいと願わずにいられません。
読まれた方も多いと思いますが、改めて、全文を引用させていただきます。
「こども代表・平和への誓い」
昭和20年8月6日、午前8時15分。一瞬にして広島の街は何もかも破壊されました。原子爆弾は、高温と爆風で人々をおそい、さらに死の放射能で街を汚染していきました。そして、その年の終わりまでに約14万人もの命が失われました。14万の夢や希望、未来が奪われ、数え切れないほどの悲しみが生まれたのです。
平成17年11月22日。私たちの身近なところで、とても悲しい、辛い事件が起きました。その事件によって、私たちが当たり前だと思っていた日常は壊れてしまいました。好きな友だちとおしゃべりしながら登下校したり、一人で外へ出ることもできなくなりました。そして、私たちは事件を通して、一つの命の重みを知りました。
この時奪われた命も、原子爆弾や戦争で奪われた多くの命も同じ命です。一つの命について考えることは、多くの命について考えることにつながります。命は自分のものだけでなく、家族のものであり、その人を必要としている人のものでもあるのです。
「平和」とは一体何でしょうか。
争いや戦争がないこと。いじめや暴力、犯罪、貧困、飢餓がないこと。
安心して学校へ行くこと、勉強すること、遊ぶこと、食べること。
今、私たちが当たり前のように過ごしているこうした日常も「平和」なのです。
世界中のどこの国も「平和」であるために、今必要なことは、自分の考えを伝えること、相手の考えを受け入れること、つまりお互いの心を開くことです。人間は言葉をもっています。心を開けば対話も生まれ、対話があれば争いも起きないはずです。
そして、自分だけでなく他の人のことを思いやること、みんなと仲良くすることも「平和」のためにできることです。
私たちはこれまで、祖父母や被爆者の方から体験を聞いたり、「平和」について学習したりする中で、原爆や戦争のことについて学んできました。しかし、まだまだ知らないことがたくさんあります。これからもヒロシマで起きた事実に学び、それを伝えていかなければなりません。
私たちは、命を大切にし、精いっぱい生きることを誓います。
私たちヒロシマのこどもは世界中の国々や人々との間の架け橋となり、「平和」の扉を開くために一歩一歩、歩み続けていくことを誓います。
平成18年8月6日
こども代表
広島市立南観音小学校6年 新谷望
広島市立楽々園小学校6年 スミス・アンジェリア
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私の祖母は数年前に亡くなりました。
しかし、亡くなる前、18年間は真の意味で生きていたのかどうかと考えたとき、素直にうなずく気持ちになれません。
私が大学に入学してすぐに祖母は脳溢血で倒れました。
幸い、その時は記憶の混乱があったり、体に麻痺は残ったりしたものの意識を取り戻すことができました。しかし、リハビリもままならないまま、寝たきりの生活を余儀なくされることになりました。
数年後、完全に意識を失い、ベッドの上で機械の助けを受けて呼吸を続けるだけの状態に。
これが生きているということなのだろうか?親族全てがそんな風に疑問を持ちながらも、心臓が動き、呼吸をしているのだからと祖母を生かし続けました。意識を取り戻すことなどないだろうと分かっていながらです。
日本の高度な医療により、祖母は一命を取り留めました。しかし、そこからの18年間は、祖母にとってどんな18年間だったのだろうと虚しさが残ることも事実です。どんな形でも生きていて欲しいと素直に願うには、18年という時間は、肉親である私たちにとっても長すぎました。
祖母が亡くなったという知らせを受けたとき、悲しむよりもまず、祖母のためにほっとしまったことは否定できません。
祖母のことを考えるとき、必ず思い出すイラン人の友人とそのお父さんがいます。
友人のお父さんもある時、脳血栓で倒れました。
右半身に麻痺が残ったものの、その時は一命を取り留め、退院して自宅に戻ることもできました。しかし、それから数ヶ月後、再び倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。
お悔やみを述べた私に彼女は言いました。
私たち家族は、この何ヶ月間かで、お父さんがいつ亡くなっても大丈夫な心構えができていた。最初に倒れてから、家族がみんな集まって、お父さんを囲んで過ごすことができたし、お父さん自身が人に手助けしてもらって生活をすることに恥ずかしさと申し訳なさを感じて過ごしていたから、お父さんの気持ちを考えると、正直なところ、決して悪いことではなかったような感じがする。家族全員と最後の時を過ごし、みんなに看取られて苦しむことなく亡くなったお父さんは幸せだったのではないかと思う。お父さんがいないのは悲しいけど、でも…
イランでは日本に比べれば医療レベルはまだそれほど高いものではありません。また、保険制度の問題と所得格差の大きさから、全ての人が手術費や入院費がかさむような長期に渡る入院加療を受けるのが難しい状態です。そのため、助かるかもしれない人が助からないこともあるのは残念ながら事実です。
単純にイランがいい、日本がいい、などという比較はできませんしするつもりもありません。そして、この問題がいろいろなところで、私などよりもっと深くこの問題について論じられているであろうことも承知しています。しかし、日本とイランでのきわめて個人的な体験から、人として生きることって、死ぬことって何だろうという疑問が常に頭のどこかにこびりついて離れないのです。
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暑さが厳しい地方では、暑さをしのぐ工夫もそれぞれです。
イランは国土の多くが高原地帯で、雨や雪の少ない乾燥した地方がほとんどです。そのため、夏は乾燥した暑い日が続き、冬は雨や雪の降る寒い日が訪れます。
暑さや寒さを防ぐため、伝統的な家屋では様々な工夫がなされています。
一番多いのは、寒さや暑さを防ぐために厚い壁で家を造り、夏涼しく冬暖かな地下に部屋を作るというものです。
写真はファールス州の南部で撮ったものです。もうすぐペルシア湾という場所で、夏は気温が50度近くまで上昇します。そのため、部屋が半地下状態になっていることが、地面近くにある窓からよく分かります。
この、妙に低い窓、生活の工夫から生まれたものなのですが、家に何ともいえない表情を与えてくれていて、なんだか好きなものの一つです。
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ちょっとおもしろい話を東海大学の春田先生が書かれていたのを思い出したので、今回はそちらを引用させていただくことにしました。(から)
1.サーサーン朝ペルシア女帝「ボーラーン」 "Bo:ra:n"(在位630-631頃)
「娘」にあたる「ドゥフト」"duxt" が付く(/x/は、バッハの「ハ」と同じ摩擦音)
ちなみに、"duxt"は、英語の"daughter"と同語源
「ボーラーンドゥフト」"Bo:ra:nduxt"
2.近世ペルシア語ではなぜか語頭の{b}が{p}になったりする
「ポーラーン(ドゥフト)」 "Po:ra:n(duxt)"
3.アラブ語や近代イラン高原のペルシア語では、/o:/は/u:/に;
どのみち、/o:/と/u:/はアラビア文字ペルシア文字では書き分けできない
「ブーラーンドゥフト」 "Bu:ra:nduxt" / 「プーラーンドゥフト」 "Pu:ra:nduxt"
4.{b},{p}と{t}は、アラビア文字ペルシア文字では点の位置と数だけが違う
誰かが、この人名の{b}/{p}を{t}と写し間違える(書き間違える)
「トゥーラーンドゥフト」Tu:ra:nduxt
「トゥーラーン」という広域地名があるので「トゥーラーンの娘」と再解釈されても、違和感はない
5.近代イランでは、短母音/u/→/o/; 「-ドフト」
6.ペティ(1711): "Tourandocte"
これは名前だけを借りたもので、元になったストーリーはまた別のペルシアのお話
7.ゴッツィ(1762): "Turandot"
8.プッチーニ: "Turandot" 「トゥーランドット」
↓
イナバウアー
荒川静香、金メダル!!
この「〜ドフト」というのは春田先生による上の説明にもあるとおり、「娘」といった意味で、名前に使った場合は日本語の「〜子」という感じでしょうか。今でもゾロアスター教徒の女性の名前によく使われています。
ゾロアスター教がイスラームが登場する以前にイランで広まっていた宗教の一つだったことから、当たり前のことですが、イスラミックな名前、アラビア語の名前というのはまずほとんど見あたりません。
ちなみに、「娘」「女の子」を表すペルシア語は「dokhtar」、「息子」「男の子」は「pesar」、「母」は「ma:dar」、「父」は「pedar」、「姉妹」は「kha:har」、「兄弟」は「bara:dar」。どれもペルシア語がインド・ヨーロッパ語の一つなんだなあということを感じさせてくれる言葉です。
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そういえば、今は、夏休みに学校のグラウンドなどに集まって、早朝のラジオ体操をすることなどなくなっているのでしょうか。
まあ、私も日本で大学生をしていた頃は、朝刊を読んでから寝る、ということもしていましたので、あまり偉そうなことは言えませんが。
そんな生活を送っていた私ですが、イランではすっかり朝型です。
夜12時前には寝て、朝6時には起きる。サマータイムを取らない今年は、夏でも朝日を眺めることができる生活です。

そういえば、ここでお話しするのをすっかり忘れていましたが、イランでは今年、大統領の鶴の一声によりサマータイムを廃止しました。大統領閣下によると、「経済的効果が認められないこと」「西欧の習慣に合わせる必要がないこと」が理由だそうですが、まあわからないでもありません。
時計を一時間早めようがそうでなかろうが、イランではもともと朝早く起きて仕事を始める朝型で、残業もほとんどしません。帰宅をして一休み。家族や親戚が集まって楽しむのは日没後です。夏は暑い時間帯を避けて仕事を早く始めていますから、サマータイムをわざわざ設けなくとも、自然にあわせた生活時間で動いています。
そう考えてみると、新たな経済効果などないかもしれません。それどころか、サマータイムの始まりと終わりに一斉に時計を合わせる手間暇が省けて楽なのかもしれません。
実際、普通に生活している分には、サマータイムがあろうとなかろうとあまり変化は感じません。せっかくなので、大統領閣下には、休日の方の問題についても考えてもらいたいのですが、こちらは使っている暦が違うために解決が難しいのかもしれません。
イランでは木曜日が半日(テヘランの省庁などでは休日)、金曜日が休日です。ところが欧米をはじめとする多くの国では土曜日と日曜日が休日ですので、一週間のうち月曜日から水曜日までの三日しか平日が重なりません。これは仕事をする上でとても不便です。お互いの暦を尊重しつつこうした不便さを解消する方法ってないものかなあと、日本と仕事のメールのやりとりをする度に思うのです。
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一番多かったのは通訳兼ガイドです。それも、日本からの学生さんたちのツアーに同行したり、先生方の調査などのお手伝いをしたりというのがほとんどで、これが私自身の勉強にもなり、いわば一石二鳥という感じでした。
そうした中でも特に印象に残っているのが、ある大学のツアーに同行したときのことでした。
学生さんたちと一緒にバスに乗って、シーラーズからエスファハーン、ヤズドと移動し、そこからキャビール(土漠)を縦断して北へと向かう途中、砂漠の中で夜になってしまいました。
街灯もない砂漠の中の街道で休憩を取るためにバスの外へ出たとたん、学生さんたちが歓声を上げました。
日本では見ることができないような星空が頭上に広がっていたのです。
天の川までくっきりと見える圧倒的な星空に、彼らは言葉もなく見入っていました。
明かりのない真っ暗な沙漠を行く心細さと、影ができるのではないかと思ってしまうくらいの星明かりに何かを感じたのでしょう。みんなバスに戻ってからも言葉を発することなく、窓の外に見入っていました。
もう一つの出来事は、彼らとカスピ海に出てからのことでした。
宿から近いカスピ海岸で夜の散歩をしていると、何人かの学生さんが「カスピ海に昇る朝日を見てみたい」と言い出しました。聞けばまだ朝日を見たことがないというのです。
カスピ海が東西に海岸線を延ばしているあたりでしたのでうまく水平線から朝日が昇ってくれるかどうか心配でしたが、日が昇る前にもう一度海岸へ来ることを約束しました。
結局、ツアー参加者全員が朝日を見たいと参加し、みんなで海岸へ。
うまく水平線から顔を出してくれた太陽に、みんなはやはりじっと見入っています。

彼らがイランの東半分を一周する中で、どんな体験をしたのか、どんなことを考えたのかは彼ら自身にしか分からないことでしょうが、それが彼ら自身にとってどんな形であれ、心に残ることであってくれたらと思います。
(写真は朝日に見入る学生さんたち〜ラームサルで。星空の写真は残念ながら撮れませんでした。)
それにしても、最近の大学生は朝日を見たことがないのですね。皆さん夜型生活なようです。
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