イランでどんなアルバイトがあるかというと色々です。
まず、他大学の非常勤を引き受けたり、公開講座や大学受験の予備校で教えたりというのは日本と同じです。
民間企業で働いているという人もいます。きっとこちらの方が給料は良いに違いありません。
それから、これはイランらしいところなのですが、沢山論文や本を書く、というのもあります。
私は日本とイラン以外の事情はよく分からないので、この二カ国に限ってお話しををさせていただきますが、日本では普通、論文を学術雑誌に載せてもらうためにはその雑誌を発行している学会に学会費を入会しなくてはならない場合がほとんどです。
ところがイランでは、学会というもの自体が日本のような形では存在していないので、誰でも論文を雑誌に投稿することができます。そしてここが重要なのですが、多くの雑誌では、論文の掲載料を支払ってくれます。
このため、先生方は論文を大量生産し、小遣いを稼ぐのです。
このシステムを知るまでは、どうしてイランの研究者はこんなに内容の薄い論文を大量生産するのだろうと不思議に思っていたのですが、要するに、お金のためだったのです。
また、学術書も日本に比べると出版が比較的容易で、お金になります。
日本では、博士論文の出版はかなり難しく、どこの出版社もまず引き受けてくれません。出版のための助成金をもらうのも大変ですし、ほとんど自費出版に近い状態です。
学術雑誌への投稿や学術書の出版でお金を得ることができるというのは日本ではまず考えられませんが、イランではどうしてそれが可能なのか実は私もよく分かりません。政府がそういった活動に支援をしているのか、それとも全く別な理由があるのか、そのうちきちんと聞いてみたいと思っています。
私も知り合いの薦めでレポートを一本、こちらの雑誌に掲載してもらうことになったのですが、発行予定の「ノウルーズ開け」になってもまだ発行されていません。このまま企画が流れるということはないと思いたいのですが、いつになるのかなあと、どきどきはらはらしているところです。
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どうして断言できるかというと、IRIB(イランの国営放送)でバイトをしていたときにそこで働く職員から直接聞いていましたし、新聞の読者からの苦情欄を読めば毎日のように、給料が支払われないという公務員(特に学校の先生)からの訴えが載っているからです。
もう三ヶ月も給料を支払ってもらえない、給料を全額支払ってもらえない、そんな話ばかりです。
イランという国は公務員に給料を支払うことができないくらい貧しい国なのでしょうか?
そんな情況であるにもかかわらず、我らが親愛なる大統領閣下は、公約に掲げた「就業機会の拡大」を実行するために、公務員の数を増やしました。
ハータミー前大統領時代に「若者の就業機会を増やすため」ということで、働いているのかいないのか分からない、従軍経験があるというだけでそこにいた公務員をやっとこさ整理したばかりだというのに、元の木阿弥です。
特に仕事があるわけでなく、そこにいるだけの公務員を増やしてどうするつもりなのでしょうか?
更に言うなら、能力ではなく、コネと「バスィージである」ということが優先される採用が、真にイランのためになるのでしょうか?
もう一つ言うのなら、「パレスチナの公務員に給料を支払うためにハマスに援助を行う」という大統領閣下の方針は何なのでしょう?
自国の公務員に給料を払わないで他国の公務員に給料を支払ってやるというのは、どこをどう押したら出てくる考えなのでしょうか?
自国民を幸せにできない人が、他国民を幸福にできるなどと本気で考えているのでしょうか?
大統領がまず行うべきことは、自分を支持してくれた(ことになっている)国民に対して、彼らが給料をもらう権利を保障してやることではないのでしょうか。清貧を旨とし、国民すべての平等を目指しているという方なのですからそのくらいのことは分かっていらっしゃると思うのですが、最近の行動を見ているとその行動に疑問符をつけないではいられません。
つい数年前まで、大学教授の給料は家族を養うことができないくらい低く、教授といえどもいくつかの仕事を掛け持ちするのが当たり前のことでした。
しかし、それでは大学での研究や、学生の指導ができないということで、教授がちゃんとした生活ができるだけの給料を保証しようということになり、そこそこいい給料が「毎月」支払われるようになりました。
ところが、どういう訳なのか、やはり以前の水準で十分だと国会が言いだして、もう一度大学教授の給料を減らそうという案が提出されたといいます。ふざけた話です。大学教授たちが、イランを見捨てて、外国へ行こうと考えるのも当然です。また、海外へ出て行ったイラン人留学生がイランに帰りたくなるのも当たり前でしょう。大学教授だけではありません。イランではやっていけないと考える人々が海外を目指すのは当然の流れでしょう。
しかし大統領閣下は、先日の演説の中で、「イランに留まりたくない人間はさっさと海外に出て行ってくれて結構」と言い放ったそうです。すばらしい話です。
ハータミー前大統領時代、頭脳流出を食い止めるためにどうしたら良いか、という議論を行っていたはずなのに、そんなことはどうでもいい、「革命万歳!」と叫ぶ人だけがイランに残ればいい、と国の方針は大転換をしたようです。
給料が支払われないとか、バスィージが力を増していることに不満を持つ人は多くいるように見えるのですが、意外と大統領閣下への批判は聞かれません。「大統領は貧しい人たちの気持ちを分かっている」「これから我々にも恩恵があるはずだ」などという声をよく聞きます。
しかし、海外に住むイラン人は、かなりイランの行く先を不安視しているのは確かです。
イランがどういう方向へ進むつもりなのか、まだ今一つはっきり分からないところとですが、少なくとも、公務員にはちゃんと給料を支払う国「信頼できる国」であって欲しいなあと思うのです。
そんな中での一番のヒットがこれ。

チケットを「サプライ(supply=供給、配給)」する?
単純に「Buy」じゃ駄目だったのだろうか?と思わず首を傾げてしまう看板。
アケメネス朝の宮殿跡などのあるパサルガダエの入り口で。

シーラーズからパサルガダエに向かう途中は植物油を取るための菜の花の畑が広がっていて、とても春らしい眺めでした。

こちらはおまけのうさぎ。
キャンガーンの宿で飼われていたうさぎたち。宿に付属のレストランから出る残飯をたらふく食べて、ふくふくと太って元気そう。
ということで、ブーシェフルからいにしえのスィーラーフを訪れるべく、一路南へ。
途中、せっかくだからということで、今話題になっている原子力発電所を見に。運転手が怖がって、途中でこちらの言うことを聞かずに引き返してしまいましたが、実際には、随分と近くまで近寄って見ることができるのだとか。
そこからはキャンガーンへ。
イランのペルシア湾岸を走っていていつも不思議なのが、どうして海岸沿いに街道を通さないのだろう?ということです。
例えば、ブーシェフルとキャンガーンの間にはいくつか小さな港町(村かもしれませんが)があり、それをつなぐ道路も走っていますが、メインとなる街道は海岸から随分と離れた内陸を走っています。
これはここだけでなく、ペルシア湾岸全体に言えることです。
イラン独自の考えもあるのでしょうけど、内陸の、ひたすらはげ山と砂漠や土漠が広がる光景だけを見ながら走るのはとても退屈です。何もないところなので、道路を造るのは簡単なのでしょうが。どうせならシーサイドラインにしてくれたらなあと、ついつい思ってしまいます。
そうして荒野をパイプラインと一緒に走って海が見えてきた!と思ったらキャンガーンに到着です。
ごく小さな街なので、目の前に広がる海も青く、とてもきれいです。

現在のスィーラーフの街(村の方が正確かも)の全体
さて、スィーラーフです。
今はないスィーラーフの街は、現在のキャンガーンとその両隣の小さな港、ターヘリーとダイイェルの三つの港を含むくらいに大きな街だったそうです。
記録によると、この街の歴史はサーサーン朝(西暦3−7世紀)にまで遡るそうです。サーサーン朝の王の名前、アルダシールにちなんで「アルダシール・アーブ(アーブは水の意味)」というのがこの町の名前の始まりでした。
その後、イスラーム時代になって交易が盛んになり、ペルシア湾内だけではなく、遠くインドや中国とも交易が行われるようになり、スィーラーフは繁栄しました。ペルシア湾の真珠の輸出で特に有名だったとか。

スィーラーフの遺跡。波打ち際に建物の跡が見えるが、打ち上げられたり投げ捨てられたりしたゴミで一杯。
いつの間にやら衰退してしまったスィーラーフには現在、バーザールの跡、金曜モスクの跡、支配社会層の人々の館などが残されていて、当時の繁栄の様子をかいま見せてくれます。

金曜モスク跡から海を臨む、の図。モスクの裏はもうすぐ砂浜。
スィーラーフには、イスラーム以前のゾロアスター教徒の墓と言われている場所があります。
山の斜面の岩を長方形にくりぬいてあるものが延々と続く不思議な場所です。
イランではゾロアスター教徒の集団墓地と考えてられているようですが、それに対して疑問を投げかける学者もいるとか。

遺体を置くには小さすぎ、鳥葬をしたあとの骨を入れたにしても蓋が全く見あたらないのはおかしいとか、骨が全く見つからないのもおかしいとか、墓地とするには疑問点も多いのだそうです。
しかし、斜面一面に長方形の穴が開けられているのは不思議な光景で、いったい何のための穴なのか、夕闇の迫る中で色々と考えさせられてしまったのでした。

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旅行中は当たり前ですが取りに行くことはできませんし、テヘランに戻ってからもばたばたと忙しく、なかなか受け取りに行くことができませんでした。
昨日、その給料をようやく受け取ってきました。
とはいえ、この給料、大学の授業に対する報酬ではありません。
私は、大学での授業の他に、テヘラン大学の公開講座でも日本語を週に一日教えていました。今回の給料は、この公開講座の講師料なのです。
昨年12月に始まって3月に終わったコースの給料は支払われたのに、昨年9月に始まった大学での給料はまだまだ支払われる様子がありません。やはり、聞いていた通り、一年遅れで支払われるのでしょう。公開講座の講師に誘われたときに、「公開講座はちゃんと給料を払ってくれるわよ」と言われたのは本当だったようです。
大学がなかなか給料を支払わないことについて、「つまり、私がこの一年で講師をやめて日本へ帰ったら、給料を受け取ることができないってこと?」と、他の先生に聞いてみました。すると、「ああ、そうなんですよ。前にもそういう先生が何人もいました」という何とも恐ろしい回答が帰ってきました。
チェ・ケシュヴァレ・アーリーエ(何てすばらしい国なのかしら)
と、思わず呟いたら大受けしてしまいました。
イランの大学は常に予算不足だと言われています。国が十分な予算を大学に対して与えていないのか、それとももっと別な理由があるのか私には分からないところですが、大学に対して何か要望を出しても、必ず「予算がないのでできません」という答えが返ってきます。しかし、先生の給料のねこばばはどうかなあと思わずにいられません。
もちろん、正規の「教授」に対してはちゃんと給料は支払われているそうです。
学歴社会ではこんなものなのかなあと、厳然と存在する区別(差別じゃないかな?)にも、疑問を感じないではいられなかったのでした。
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返ってくる答えは、「そんなの、外のレストランや食堂じゃ無理」なのですが。
ブーシェフルでも、一応、シーフードが食べられるところを探してみました。
嬉しいことに、マハッリー(その土地)のメニューの置いてあるレストランを見つけることができました。
それも、どこでも見られるような魚をフライにしたものではなく、イランでは珍しいスパイシーな料理でした。

エビのフライ
エビと玉葱をスパイスで味付けしたもの(メイグー・ビヤーゼ)
細かく切った魚と玉葱をスパイスで味付けしたもの
写真にはないが、カニの身をやはり野菜と一緒にスパイシーに炒めた料理もおいしかった。

マンゴー入りの漬け物。これはキャンガーンという、ブーシェフルから100キロメートルほど南の小さな街の食堂で食べたもの。

エビ入りシチュー。これもキャンガーンで見つけたもの。スパイシーではなかったけど、何というか「暑い」味だった。

キャンガーンの朝市で
ぶらぶらと魚を見て歩いていたら、魚を売っていたおばさんに、「何でも好きなのを買って行きなさいよ!」と声をかけられた。買いたいのは山々なのだけど…
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今年はペルセポリスがなんだかぱっとしなかったようですが、エステグラールにしてもペルセポリスにしても、チームの財政状況が今一つ良くないらしいのでなかなか大変なのではないでしょうか。
テヘラン大学の外国語学部でも昨日は学部内チームの大会があったそうで、学生が授業を早めに終わらせてくれと嘆願に来ていました。
これまで、「うちの男性たちはサッカーばっかり見ているけど、私は全然興味はないわ」という女性を多く見てきましたが、日本語学科の女の子たちにはサッカーが好きという子が意外と多くてびっくりです。

写真は22日のSharq紙一面から
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日本ではこの島、カーグ島と呼ばれて石油関係者などには有名な島で、イラン最大の石油積み出し施設のある島なのだとか。ペルシア語のخارک (Khark) がどうしてカーグになるのかは少々不思議なところです。khの音はアラビア語風に発音すると確かにKの音が強くなるのでカーとなってもまあ仕方がないかなと思うのですが、ペルシア語ではRはきちんと発音されますし(何たって、International airportを“いんてるなしょなる・えいるぽると”と言う人も多い)、Kの音がGになるのもなんだか不思議な感じです。
まあ、そんなことはさておき、ハールク島です。
ブーシェフルの北にある港、ゲナーヴェの沖合38キロメートルのところに浮かぶこの小さな島は長さ8キロメートル、幅4〜5キロメートルほどの小さな珊瑚礁の島です。
歴史は古く、イスラーム以前からの遺跡などが見られ、イランの歴史や文化を研究する人にはとても魅力的な島なのですが、現代になってこの島が石油関連施設の中心地となり、外国人の立ち入りが基本的に禁止されてしまい、なかなか訪れることが難しくなってしまいました。もちろん、イラン人なら問題はないそうなのですが。
昔からこの島に住んでいる人が2500人、石油関連施設で働く人やその家族が約1万人ほどこの島には住んでいるそうです。
イランに来て以来、どうしても行ってみたい場所の一つだったのですが、これまでなかなか機会がないままでした。しかし、先日ようやく渡航許可を取り、この島へと足を踏み入れることが叶ったのでした。
ブーシェフルからハールク島への船は一日一往復だけで、これを使うと島に二時間しか滞在できないということなので、便数の多いゲナーヴェまで移動し、そこから25人乗りの小さな船でハールク島へ行くことに。

(ゲナーヴェの桟橋の近くで開かれていたバーザールで)

9時30分発とのことだったのですが、遅れに遅れて、ゲナーヴェを出発したのは10時を大分回ってからでした。

(船が怖いのか、頭を抱えてうずくまっていた人。そういえば、以前、ゲシュム島へ渡る船の中でも男の子がずっと彼女にしがみついていたこともあった)

エメラルド色の海を渡って降り立ったハールク島の船着き場は、何と油井の目の前。船着き場の様子を写真に撮るとしっかりと炎を上げるパイプが映ってしまいます。
石油関連施設は写真に撮らないように!と言われましたが至難の業です。

まずは島の人が誰でも知っている、イスラームの聖者廟へ。
随分と古い廟だったことは確かで、内部に貼られたタイルにはイスラーム歴738年(西暦1337年頃)という年号が見えるとか。
しかし、イラン・イラク戦争時に大分破損したそうで、現在はやっつけ仕事としか思えない修復が施されているだけで惜しまれます。

それから、廟のすぐ隣にあるゾロアスター教徒の墓地へ。
イスラームがこの島へ入ってくる以前、ここに住んでいたゾロアスター教徒たちが葬られていたとされる場所です。
私は気がつかなかったのですが、十字架が掘られている穴もあって、キリスト教徒も葬られていたのではないかとも考えられているとか。
以前はその当時のガラス片や指輪などが見つかったそうですが、今はそんなものもなく、ただ墓がぽっかりと口を開けているだけでした。
イランの街では、それを職業にしていたりバイトだったり色々ですが、街を流しているタクシーが多いので、ぶらぶらと歩いていても移動に困ることはありません。ところが、基本的に外部の人間がいないことになっている島ではそういう流しのタクシーがいないため、墓地から次の目的地へ移動するためのタクシーを見つけるのが大変でした。結局、通りすがりのバイクのおじさんに、タクシーをつかまえてここまで送ってとお願いする羽目に。これは全く想定外でした。
昼食は島に一つだけあるホテルのレストランで。
ペルシア湾に浮かぶ島で、地元住民の生業の一つが漁業であるはずなのに、テヘランと同じようにキャバーブしかないメニューに閉口したのでした。自分の知っている味しか受け付けないというイランに住むイランの人たちの味に対する保守性はいったい何なんだろうと、もやもや悩んでしまったのでした。そういえば、テヘランの人に、湾岸の魚は匂いがあって食べられない、と言われたことがありました。カスピ海の魚でも、マーフィー・セフィードくらいしか食べないし、あとは養殖のマスしか食べないのですから。
昼食の後は、教会とオランダ城塞へ。
この二つの存在を知らない島の人が多く、昼食後に頼んだタクシーの運転手もその一人で、タクシー会社のオフィスで確認をしてもらってから出かけたのですが、この人によると城塞と教会は同じ敷地にあって、今はもう壊れてしまっているとのこと。
連れて行ったもらった場所には確かに、何かの建物があったのだろうという跡はありましたが、ほとんど何も残っていません。しかし、イランの文化財保護庁の報告によると、教会はもう少しきちんと建築が残っているはずなのだけどなあと、運転手がいい加減なことを言っていたのではないかという疑いが実は少しだけ残っています。

もう少しのんびりと島を散策したかったのですが、帰りの船の時間が迫っていたために断念。ゲナーヴェへと戻ったのでした。
ゲナーヴェへ戻ってから同行したイラン人ガイドが、「やっぱり島へは入るなと言われるのではないかと心配していた」と一言。外国人観光客が入るのが難しい島だったのだと、改めて思ったのでした。
でも、できるならぜひ、もう一度ゆっくりと行ってみたいと、再訪を心に誓ってしまうくらい魅力的な島でした。
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またまたイラン縦断の旅をしてしまいました。それも今度は全行程陸路です。
行く先は、イランがロシアの援助で原子力発電所を建設中のブーシェフル(日本ではブシェールとなっているところもあるようですが)のあるブーシェフル州です。
とはいっても、今回は原子力発電所とは全く関係なく、ブーシェフルの沖合にある小さな島、ハールク(khark)へ行くのが主目的でした。

それにしても今回の旅行はハードでした。5泊6日のほとんどを移動に費やしたと言っても過言ではありません。
一日目。
テヘランを出発、ゴム、エスファハーンを経由してシーラーズまで。ここまでで924キロメートルです。
翌日は、シーラーズを出てブーシェフルまで。304キロメートル。途中で何カ所か寄り道をしたため、ブーシェフルに到着したのは午後になってから。

ブーシェフル、というのは、「香りの街」の意味、と聞いているのですが街の名前の由来を手元の資料では確認できません。
でも、我々が訪れたこの時期は、色々な花が咲いていて、花の香りに満ちた街、ということなのかなあなどと勝手に想像することにしました。

ペルシア湾沿いの街ですから覚悟はしていましたが、既にホテルや商店では冷房が入っている状態で、一日半をかけて1200キロメートルを走ってきた身には暑さがちょっと応えてしまったのでした。

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街の人々の反応は薄く、あまり興味はなさそうでしたし、「イラクのことがあるからアメリカがイランを攻撃してくるわけがない」と、国際情勢にも楽観的です。
イランの人は悲劇の主人公になりたがるペシミストなところもある割に、何というか、楽観的なところもあって、核問題については、事態は全然深刻じゃないと考えているようです。
今、イラクから兵を動かすことができるわけがないからイランへの攻撃はない、という理論ですが、「攻撃」というのは決して兵を動かすことだけではなくて、ミサイルなどによる攻撃も含むと思うのだけど、と、自宅が核開発関連の研究所が高速道路を隔てたお隣の地区にあって、勤務先は自宅よりも更に研究所に近い私としては、研究所がミサイル攻撃の対象になってしまったらと、少々心配なのでした。

意図はよく分からないのだけど、核保有国になったことを祝うものらしい写真。12日のSharq紙の一面。
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まだなんとなく正月気分が残っている感じですが、学生もほぼ揃い、もう一度気分を引き締め直して授業です。
私は、2年生と3年生の授業を担当しているのですが、このくらいになると、学生の側に気持ちの揺れが見られ始めます。
日本語が分かるようになり、先生と日本語で会話をしたり、日本語のテキストを読むのが楽しい、新しい漢字や単語を覚えるのが嬉しいと思い、将来は日本へ留学したり、日本関連の仕事をしたいとがんばる学生が一つのグループ。
もう一つが、「どうせ日本語を覚えたところで何の役にも立たない」と決めつけ、授業にやる気を見せず、さぼったりする学生のグループです。
別にこれはイランに限ったことではないでしょう。
私が日本で中東関連の学科に所属していたときも、やる気のない学生は何人もいました。
学生でいるときも、そういう学生が、「つぶしのきかない学科」「何の役にも立たないことばかり勉強させられる」と言うのを嫌な気分で聞いていましたが、教える側になってみて、こういう学生がいかに困った存在かということを実感しました。
こちらが何を言っても、「覚えても仕方がない」「興味がない」で文句を言うばかり。他のやる気のある学生に対しても、「どうせ就職なんかできないんだし、留学だって全員ができるわけじゃない」などと、やる気を削ぐような発言を繰り返します。
そんなに日本語が嫌なら、できるだけ早くやめて、自分の本当に希望する学科をもう一度受験し直しなさい、と言いたくなることもしばしばです。実際、いつまでもぐずぐずと自分がいかに不本意な立場に置かれているかと文句を言い、自分の不幸を嘆くよりも、そうした方がずっと前向きなのではないのかと思うのですが。
個人的には、こうした学生には何を言っても無駄だし、それよりはやる気のある学生に重点を置きたいと思っているのですが、大学本部の方針により、そうもいかないので困ってしまいます。
大学は義務教育ではないのですから、やる気のない学生にまで手厚く指導をする必要があるのかどうか考えてしまいます。
学生にやる気を出させるのも教師の仕事の一部かもしれませんが、どうしたものかと頭を悩ませる毎日です。
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以前にご紹介したバンダル・アッバースで流行中の日傘。
一番最初に目を引いたおばさんのカラフルな日傘の写真をようやく見つけたので、今更ですがご紹介を。
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