この日は、イラン生まれの思想家であるスフラワルディーの記念日です。
彼はイラン東北部にあるスフラワルド村で生まれ、イスファハーンでイスラーム諸学を修得、その後イスラーム圏各地を旅し、その間にイスラーム神秘主義思想を学びました。神秘主義思想に、プラトンの哲学、グノーシス哲学からも影響を受けて、独自の神智学を完成させました。
彼が大きく影響を受けたのは古代イランのゾロアスター教に見られる、光明と暗黒の二元的世界観でした。彼の思想を大きく特徴づけるものが闇に対抗する存在である「光」です。これを説明すると本が一冊くらい書けそうなくらいですので、説明は割愛させていただきますが、この光の思想から、彼は「東方照明学の師」と呼ばれています。
彼はこのように、イスラーム以外の概念を多く取り入れた学説を唱えたため、保守的な学者たちにより投獄され、アレッポで西暦1191年に獄死しました。
関係ありませんが、イスラーム哲学や神秘主義を研究していると、スフラワルディーという人物が何人も出てきて混乱することがあります。時におじいさんから名前をもらって、ということなのかフルネームが完全に同じ人物がいたりして、どれがだれなのやら困ってしまうこともしばしばです。
同じ名前といえば、こちらでは名字は割と色々なのですが、名前のレパートリーはあまり豊富とは言えません。特に男性はアリー、レザー、モハンマド、ホセインのどれかかこれらを組み合わせた名前がやたらと多いです。例えば街中で「おい、アリー」と呼びかけたら何人もの人が振り向くであろうことが確実です。
まあそれでも日常生活の中ではさほど不便を感じないのですが、一つ困るのが電話です。少し親しくなると、電話をかけてきても自分の名字を名乗らず、名前だけを名乗る人が出てくるのです。
「ハロー(allo)」
「レザーだけど(Reza hastam)」
『…レザーってどのレザーだ?』(内心の声)
「僕が誰か分かってる?(mi-shenasin?)」
「もちろん(bale, bale)」
『誰だっけ』(頭の中の知り合いリストを必死で検索中)
こんなことがしばしばです。
毎日会っているような人なら声で分かるのでしょうけど、一ヶ月に一回くらいしか会わない人だと声では分かりかねるので困ります。たとえ知り合いのところに電話をするにしても、一応は名字あるいはフルネームを名乗って欲しいものだと思います。
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スーパーへ買い物へ行き、ある食品を見て、イランの食卓に欠かせないある食品だと思いこんで購入。部屋へ戻って食べてびっくり。
「なにこれ!!!全然違う!!!まず〜〜〜」
彼らは「豆腐」をチーズと間違えるのだそうです。
「あれはびっくりしたよ」
と、体験者の皆さんは口をそろえて仰います。

ということで、こちらが、イランのパニール(チーズ)の写真です。
これは地方のバーザールで売られているその土地の(マハッリー)パニールですが、確かにこの質感は何となく豆腐に似ています。スーパーマーケットやミニスーパーなどで売られている市販品の中には、日本の豆腐のように立方体で水の中に浮いているものもあるため、ますます豆腐に似ています。
イランのパニールは、牛、羊、山羊の乳から作られる、いわゆるフェタチーズが普通です。というか、それ以外のパニールを見たことがありません。
ナンとパニール、キャレ(バター)、モラッバー(ジャム)、アサル(蜂蜜)というのがイランの一般的な朝食だと思います。昼食や夕食でも、ナンが食卓に乗るならパニールも添えられているはずです。
お金がなくて食費を節約しなくてはと言う時に、日本では「ご飯に塩をかけて食べる」と言いますが、イランでは「ナンとキャレ、パニールで過ごす」と言うらしいです。
イランの町や村を歩いていると、「ラバニヤート屋」が目につきます。ラバニヤートとは乳製品のこと。そこではシール(牛乳)、パニール、キャレ、ハーメ(生クリーム)、マースト(ヨーグルト)、ドゥーグ(ヨーグルト飲料)などの乳製品が売られています。
こうした商店やスーパーなどで売られている製品は、牛乳から作られたものがほとんどです。これは、牛の乳は羊や山羊に比べてくせが少ないことと乳の量が多いことによります。
ところが、山羊や羊の乳のくせが好き、という人もいますし、地方出身者などにとっては村で食べていた懐かしい味だったりするということで、町の商店でも時々、「羊の乳のマーストあります」とか「羊の乳のパニールあります」という看板を出している商店があります。私は、山羊乳パニールはわりと好きですが、キャレはかなりくせがあってちょっと苦手です。ある日本人研究者は「獣の味がする」と言っていましたが、まさにそんな感じです。

こちらはまた別な種類のパニール。上の写真で、後ろの赤い桶の中にあるぽろぽろしているものもパニール。
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バスィージとは、一言で言えば「民兵」です。
普段は八百屋やパン屋で働いている人たちが、自分たちの国(町でも)に危難が迫った時に武器を持って立ち上がる。これがバスィージです。正規の軍隊ではない兵ということです。
イスラーム革命後、イランは軍隊の再編を行う前にイラクによる攻撃を受け、また、アメリカをはじめとする国々からの経済制裁による兵器の不足により、大変な状態にありました。
正規軍だけではとうてい戦線を維持できず、それまでイランの領土であった場所にまで攻め込まれ、占領されるようになりました。
こうした情況の中、イランの若者(とは限りませんでしたが)が自分たちの国と革命を守るためにバスィージとして立ち上がり、バスィージ軍として戦場に赴くようになりました。イラン・イラク戦争の末期のイランは、こうしたバスィージを大量動員して戦線に送り込むことでようやく戦線を維持している状態でした。バスィージがいなかったら、イランはもっと早くに戦争に負けていたかもしれません。
彼らは正規兵ではなかったため、戦士をしても家族に手当てなどほとんど出ませんし、それどころか、正規兵のようなネームプレートをつけていない人も多かったため遺体が家族の許に届かないということも多かったそうです。未だに「生死不明」の家族を待つ人は各地にいます。
戦争中に多くの死者を出したバスィージたちは、戦争後、イラン国内で特殊な地位を持つようになりました。彼らは大学や官庁などの中でバスィージ組織を作り、あまつさえ、その中で事務室などを構え、新たな構成員を募り、訓練を行い、政治的な活動を行っています。
官公庁の中での組織がどのような活動をしているのか、大学内の組織の構成や活動内容は、外国人であり女である私にはよく見えないのですが、彼らがそれなりの力を持っていることは確かです。
彼らは本来軍隊や警察以外では許されないはずの武器を持ち、訓練を行い、繁華街の道路を封鎖して、「堕落した」男女を捕まえ、暴力をふるったりしています。軍でも警察でもない組織がそういったことをどうして行うことができるのか私には分かりませんし、納得のいく説明をしてくれた人もいませんでしたが、現実に彼らはそういった活動を行っています。
また、大学内で、反政府的な発言をした(と彼らが考えた)教授を、大学に圧力をかけてクビにするということも行っています。こういった情況ですから、大学では「体制万歳」を叫ぶ教授以外は教鞭を執ることができません。
大学内で納得ができないことの一つに、試験前になるとバスィージの事務室に試験の問題用紙が届くということがあります。それを目当てにバスィージに身を投ずる大学生もいるとかいないとか聞きます。
これは未確認情報なのですが、バスィージになると現金やその他支給品がもらえるということです。そのため、地方の貧しい地域出身の若者がバスィージとなることが多いといいます。保守的な色の濃い地方都市や村の出身者にとって、バスィージ組織の中でイスラームや革命理念をたたき込まれることはあまり違和感のないことでしょうから、バスィージとなって手当を受け取ることができるのならバスィージになるという若者がいても不思議ではありません。
こちらは嫌な方の動機ですが、やはり彼らが何をしても政府など権力によって黙認されるということも大きいように思います。彼らは、バスィージだというだけで威張り、気に入らない人をいじめることができるのですから、普段、権力や金持ちに叶わない人々がバスィージになってそういう人たちに仕返しを、という気分になるのも分からないではありません。実際に、そのためにバスィージになったと言っている人に会ったこともあります。
イラン・イラク戦争時には彼らバスィージの存在が非常に大きなものでした。彼らがいなかったら、イランはもっと早くイラクに負けていたかもしれません。しかし、戦争が終わってもなお「民兵」が組織を作り、国の予算やら人々からの寄付金を使って活動しているというのはなんだか不思議な状態だと思わずにいられません。
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何のためにこのようなことを行わなくてはならないのか、彼らテロリストたちの論理は、今なおアフガニスタンやイラクに駐留するアメリカの論理と同じくらい私には理解できません。
彼ら「イスラームの正義のための戦士」たちの行動こそが、ごく普通に生活しているムスリムを様々な意味での危険にさらしているというのに。こうした事件が繰り返されるたび、非ムスリムによるムスリム=テロリストという公式が強化され、イスラームがあたかもテロリストを作り出すための宗教であるかのように見なされ、各地のムスリムが非ムスリムによる攻撃の対象となってしまいます。こうした情況は、イスラームとイスラーム社会を研究する者としてとても悲しく、嫌なものでしかありません。
911の後アメリカのブッシュが一時期声高に叫んでいたテロとの戦いだという「十字軍」も、テロ集団が虐げられたムスリムたちを解放するためのものだと言う「ジハード(聖戦)」も、宗教を利用したテロ行為に過ぎず、結局はごく普通に生活する人々を、たとえそれがキリスト教徒であろうとムスリムであろうと無差別に殺戮する行為でしかないものです。
現在の俗に言う中東やマグリブをはじめとするムスリム社会が、様々な面で困難な情況にあることは確かでしょう。しかしその原因を全て欧米に押しつけることには無理があります。欧米的資本主義の押しつけによる経済的・社会的な混乱は、確かに現在これらの地域が直面している問題の一つであるでしょう。しかしその根底には、彼ら自身がまず解決すべき問題が山積しています。
イスラームの名によって女性の権利を制限していることや、イスラームによって認められていない肌の色による差別、排他性、その他あげればきりがないくらいにイスラーム社会自身に問題は存在しているのです。非ムスリム世界に対する敵対行為によってこうした自身の問題に対する不満を解決しようなどということは、全く意味のない行為であり、問題は永遠に解決しないでしょう。自らの問題から目をそらす行為はいい加減にやめるべきです。
貧しい中でも、イスラームの精神に従い、持っているものの中からできるだけのもてなしをしようとしてくれる人々が、ムスリムであるというだけでテロリスト扱いされてしまうようなことがない世の中になって欲しいのですが、道はまだまだ遠いようです。
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それについてメールをいくつかいただいていたのですが、体調が優れず、あまり考え事をしたり、PCに長く向かっていられる状態でなかったため、お返事がなかなかできずにいました。メールを下さった皆様、どうも済みませんでした。
日本の役人も外国人には冷たい、というご意見が多かったのですが、これについては全くその通りだと思います。日本人に対しても態度が悪いと思う役所も多いです。
イランと日本に共通しているのが、「外国人にはできるだけ滞在して欲しくない」ということなのではないかと思うことがあります。外国人というのは外から「悪」をもたらす存在であり、理解しがたい異質なものであるから排除してしまいたいと考えているのではないかと。日本の場合こうした意識が役人だけではなく、普通の市民レベルでも強く見られるのですが。
イラン人は一人一人を見れば、人懐っこい、親切な人が多いことは間違いありません。しかしその一方で猜疑心が強く、人を容易に信用しない部分もあります。私と個人的につきあいがあり、非常に親切にしてくれる人たちでも、しばしば「家族や親戚以外は信用できない」と言います。こうした考え方は、常に様々な勢力によって侵略を受け、支配されてきたというイランの歴史的、地理的、そして社会的な条件が創り出したもので、ある意味仕方がないのだろうと思います。
イランに来た当初、イランの人たちのこうした一種の二面性にはかなり戸惑い、悩みました。今はそういうものなのだと割り切るようにしていますが。
イランの置かれた状況、歴史的経緯については専門の一分野として学んできましたし、一応の理解はしているつもりです。つもりだけなのですが。
そのうえでやはり思うのが、どんな歴史的背景を背負っていようが、人の心を傷つけるためだけの言葉を投げつけるという行為は、一個の人間として恥ずべき行為ではないかということです。これはイランの役人に対してだけではなく、私も含めた全ての人に対して思うことです。
私自身、まだ人間ができていませんから、ついつい売り言葉に買い言葉で、相手に対してかなり問題のある発言をしてしまうこともあります。しかし、それは大抵悪い結果をもたらします。sそして私自身、非常に後味が悪く、嫌な気分を味わいます。相手を言い負かすことができたとしても、決して気持ちの良いものではありません。
言葉を発する前に、国籍や性別、宗教を問わず、自分の目の前にいる人を一個の人間として尊重できない人が、人であるにふさわしいのかどうかを考えることが必要なのではないかと思うのです。
私が自分の行動について考え、反省することになったきっかけは、大学に入学してすぐの頃に友人だと思っていた人にひどい言葉を投げつけられたことと、その後、授業の中で出会ったイランの有名な詩の一節でした。
13世紀に生きたイランで最も有名な詩人の一人であり、倫理に関する有名な作品を残しているサアディーは、一個のムスリムとしてイスラームに厳しく従いながらも、一個の人間としてこう語っています。
アーダム(※)の子孫は人の身体の一部をなすものであり
一つの本質に基づいて創造された
運命が身体の一部に痛みをもたらしたなら
他の部分も安らかではいられまい
もし他の人々の苦痛を悲しまぬなら
汝の名は人であるにふさわしくなかろう
(※)旧約聖書のアダム。イスラームでは人類の祖であると同時に預言者の一人であったとされている。
国連本部の前には各国を代表する詩人の像と詩の一部が置かれているそうですが、イランからはサアディーのこの詩が選ばれています。
アーダムの子孫、すなわち全人類を一つのものとして考え、他の人の苦痛を与えることが最終的に自分に返って来るであろうこと、そしてまた他を苦しめることが人としてふさわしいことであるかどうか、学生時代の二つの出来事以後、常に頭の片隅にこびりついて離れない問題でした。
役人というのは国あるいは共同体を運営するために存在しているはずです。それらはそれを構成する人々なくしては存在できないものです。「身体の一部をなす」人々を傷つける「身体の一部」というのは、まるでガンのような存在でしかないように思います。イランであろうと日本であろうと、人を傷つけるための言葉を投げつける役人というのは、大げさに言えば、その国自身を傷つける存在とも言えるのではないかと思うのです。
私や友人たちが傷ついたこともそうですが、そういう役人の存在が許され、あるいはそういう役人こそが出世できる国というものに切なさを感じないではいられないのです。
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