毎日、家にいられる時間はほとんど写真整理に費やしています。思った以上に未整理の写真がたまっていて、写真とメモをつきあわせて整理しています。
こうして写真を整理するうち、つい最近撮った写真からある一人の青年の言葉を思い出してしまいました。
仕事のために訪れたヤズドで出会ったのですが、「近代文明に犯されていない国を見たくてイランにやってきた」のだそうです。確か、セルビアだったかクロアチアだったか、バルカンの国の出身でした。
そして成り行き上、我々の仕事の一つであった、今は使われていないカナートの取水口の見学に彼も一緒に行くことになりました。
地下深く、暗いカナートから出てきて彼は言いました。「文明を示すものである、ペットボトルのゴミが一つ浮いていました」
そしてイランよりももっと近代文明に犯されていない北朝鮮へ行くことにしたそうです。
彼がいったいどんな国を見たかったのか私には想像できませんが、「文明」とはいったい何でしょうか。
実は私は文明学科という学科の出身です。文明とはなんぞや、ということを学んできたはずなのですが、未だにこの言葉をうまく定義できません。それでもあえて、そこで学んだことと自分なりの考えをまとめてみると、「人間社会が存続するために必要な技術やシステム」ではないかと思うのです。
その定義に従えば、どんな社会にも、それが社会として存在、機能している限り文明も存在しているでしょう。そしてその社会の抱える様々な条件により、その社会が持つ文明も異なるでしょう。そして時にその文明は、他の文明と衝突したり融合したりすることもあるかもしれません。
日本では、たとえば、「四大文明」などという言い方で古代文明を紹介することが多いためか、「文明」というと過去のもの、という考え方をする人が多いようです。イランでもその傾向があり、日本で私が文明学を専攻していたと言うと、イランの古代文明について研究していたと見なされてしまいます。しかし、文明学とは、現代を考えるものでなくてはならないと思うのです。もちろん、過去を学ぶことも重要ですが、それはやはり現代にフィードバックされるものでなくてはならないように思うのです。いわゆる「過去に学ぶ」でしょうか。また、狭い地域や分野の研究だけでなく、もっと広く、専門領域を超えて様々な研究に目を配る必要もあるでしょう。
そういえば、何年か前にイランのハータミー大統領が国連で、「文明間の対話」を提唱しました。これに対して欧米のある学者は「文明間の衝突」で反論しました。どちらが正しいとか間違えているとか私には言うことはできませんが、衝突よりは対話が望ましいとは思います。
一つの文明が他の文明と接触する時にまず何が起こるかというと、確かに衝突かもしれません。それは歴史が証明しています。しかし、その歴史を学ぶことにより、他の文明〜あるいは社会と言っても良いかもしれませんが〜とどのように接するべきか学ぶことができるはずです。それがうまくできなければ、文明間には衝突が起こるでしょうし、うまくできれば対話が成立し、互いに尊重しあいながら良い関係を築くことができるでしょう。
学ぶことは生涯、誰でも行うことができますし、必要なことだと思います。
先日の歴史認識の話にも通じますが、過去は現在と切り離されたものではなく、継続しているものです。
日本は日本単独で存在することはできません。日本以外の地で生活する人もいれば、他文明の地からやってきた人たちも日本に多く生活する時代、他文明を知る努力を行う必要はこれまで以上に増しているはずです。近代西欧文明だけでない様々な文明と対話をする努力を続けたいし、続けて欲しいと願います。
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こうして写真を整理するうち、つい最近撮った写真からある一人の青年の言葉を思い出してしまいました。
仕事のために訪れたヤズドで出会ったのですが、「近代文明に犯されていない国を見たくてイランにやってきた」のだそうです。確か、セルビアだったかクロアチアだったか、バルカンの国の出身でした。
そして成り行き上、我々の仕事の一つであった、今は使われていないカナートの取水口の見学に彼も一緒に行くことになりました。
地下深く、暗いカナートから出てきて彼は言いました。「文明を示すものである、ペットボトルのゴミが一つ浮いていました」
そしてイランよりももっと近代文明に犯されていない北朝鮮へ行くことにしたそうです。
彼がいったいどんな国を見たかったのか私には想像できませんが、「文明」とはいったい何でしょうか。
実は私は文明学科という学科の出身です。文明とはなんぞや、ということを学んできたはずなのですが、未だにこの言葉をうまく定義できません。それでもあえて、そこで学んだことと自分なりの考えをまとめてみると、「人間社会が存続するために必要な技術やシステム」ではないかと思うのです。
その定義に従えば、どんな社会にも、それが社会として存在、機能している限り文明も存在しているでしょう。そしてその社会の抱える様々な条件により、その社会が持つ文明も異なるでしょう。そして時にその文明は、他の文明と衝突したり融合したりすることもあるかもしれません。
日本では、たとえば、「四大文明」などという言い方で古代文明を紹介することが多いためか、「文明」というと過去のもの、という考え方をする人が多いようです。イランでもその傾向があり、日本で私が文明学を専攻していたと言うと、イランの古代文明について研究していたと見なされてしまいます。しかし、文明学とは、現代を考えるものでなくてはならないと思うのです。もちろん、過去を学ぶことも重要ですが、それはやはり現代にフィードバックされるものでなくてはならないように思うのです。いわゆる「過去に学ぶ」でしょうか。また、狭い地域や分野の研究だけでなく、もっと広く、専門領域を超えて様々な研究に目を配る必要もあるでしょう。
そういえば、何年か前にイランのハータミー大統領が国連で、「文明間の対話」を提唱しました。これに対して欧米のある学者は「文明間の衝突」で反論しました。どちらが正しいとか間違えているとか私には言うことはできませんが、衝突よりは対話が望ましいとは思います。
一つの文明が他の文明と接触する時にまず何が起こるかというと、確かに衝突かもしれません。それは歴史が証明しています。しかし、その歴史を学ぶことにより、他の文明〜あるいは社会と言っても良いかもしれませんが〜とどのように接するべきか学ぶことができるはずです。それがうまくできなければ、文明間には衝突が起こるでしょうし、うまくできれば対話が成立し、互いに尊重しあいながら良い関係を築くことができるでしょう。
学ぶことは生涯、誰でも行うことができますし、必要なことだと思います。
先日の歴史認識の話にも通じますが、過去は現在と切り離されたものではなく、継続しているものです。
日本は日本単独で存在することはできません。日本以外の地で生活する人もいれば、他文明の地からやってきた人たちも日本に多く生活する時代、他文明を知る努力を行う必要はこれまで以上に増しているはずです。近代西欧文明だけでない様々な文明と対話をする努力を続けたいし、続けて欲しいと願います。
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イラン暦オルディーベヘシュト月6日、イスラーム・ヒジュラ暦ラビー・アル=アッワル月17日、西暦4月26日
この日はイスラームの預言者ムハンマドの誕生日だと言われています。
ムハンマドの誕生日は実はよく分かっておらず、シーア派とスンニー派で意見が分かれています。多くのスンニー派の国々ではラビー・アル=アッワル月12日とされていますが、イランではラビー・アル=アッワル月17日を預言者の誕生日としています。
預言者は自分が人間であることを強調しており、自分が偶像化、神格化されることを認めませんでしたので、ムスリムがその誕生日や死去した日などを祝ったりすることを好みませんでした。そのため、現在でもムスリムは、預言者の誕生日を祝日としてはいますが、盛大に祝ったりすることをしません。イランでも、ラビー・アル=アッワル月17日は預言者の誕生日として祝日ではありますが、国を挙げての盛大な祝祭が行われることはありません。
イランでは、預言者の誕生日とされる日が二種類あることを認めており、双方の見解を尊重し、ラビー・アル=アッワル月12日から17日までを「団結週間」として、全ムスリムの団結を確認する日々であるとしています。
またこの日は、12イマーム・シーア派の第6代目イマーム・ジャアファル・サーデクの誕生日でもあります。
シーア派はいくつかの分派が存在していますが、その中でも大きな勢力を持つのがイランが国教としている12イマーム派であり、またインドなどを中心に信徒を持つイスマーイール派の各分派も多くの信徒を持っています。この12イマーム派とイスマーイール派の分裂のきっかけとなったのが第6代目イマーム・ジャアファル・サーデクの行動でした。
イマーム・ジャアファル・サーデク以前にも、誰がイマームの地位を継承したか、すべきかということで解釈が分かれ、いくつか小分派が存在していましたが、イマーム・ジャアファル・サーデクの存命中にも、イマーム位の継承を巡ってトラブルがありました。
イマームははじめ、長子であるイスマーイールを後継者としていましたが、イスマーイールは長ずるに従って飲酒などの悪癖を見せるようになり、イマーム・ジャアファル・サーデクはその後継者の任命を取り消し、イスマーイールの弟であるムーサーを後継者としました。
イスマーイールはイマーム・ジャアファル・サーデクの存命中に亡くなりましたが、イスマーイールの後継者任命の取り消しを認めない一派は、イスマーイールこそがシーア派第7代目イマームであり、イスマーイールが後継者を任命せずに亡くなったからには彼が最後のイマームであると主張するようになり、7イマーム派と呼ばれる一派を成すようになりました。
この一派とは別に、イスマーイールの子どもであるムハンマドにイマームの位が継承されたと主張する一派も現れ、ムバーラク派と呼ばれました。後にこのムバーラク派がイスマーイール派の中心を成すようになりました。
このように、シーア派の分派をいくつも作るきっかけとなったのが、イマーム・ジャアファル・サーデクによる後継者の変更だったのです。12イマーム派はイマーム・ジャアファル・サーデクの判断に誤りはなかったとして、ムーサーがイマーム位を継いだと考えており、このため、12イマーム派を別名ジャアファル派とも言います。
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この日はイスラームの預言者ムハンマドの誕生日だと言われています。
ムハンマドの誕生日は実はよく分かっておらず、シーア派とスンニー派で意見が分かれています。多くのスンニー派の国々ではラビー・アル=アッワル月12日とされていますが、イランではラビー・アル=アッワル月17日を預言者の誕生日としています。
預言者は自分が人間であることを強調しており、自分が偶像化、神格化されることを認めませんでしたので、ムスリムがその誕生日や死去した日などを祝ったりすることを好みませんでした。そのため、現在でもムスリムは、預言者の誕生日を祝日としてはいますが、盛大に祝ったりすることをしません。イランでも、ラビー・アル=アッワル月17日は預言者の誕生日として祝日ではありますが、国を挙げての盛大な祝祭が行われることはありません。
イランでは、預言者の誕生日とされる日が二種類あることを認めており、双方の見解を尊重し、ラビー・アル=アッワル月12日から17日までを「団結週間」として、全ムスリムの団結を確認する日々であるとしています。
またこの日は、12イマーム・シーア派の第6代目イマーム・ジャアファル・サーデクの誕生日でもあります。
シーア派はいくつかの分派が存在していますが、その中でも大きな勢力を持つのがイランが国教としている12イマーム派であり、またインドなどを中心に信徒を持つイスマーイール派の各分派も多くの信徒を持っています。この12イマーム派とイスマーイール派の分裂のきっかけとなったのが第6代目イマーム・ジャアファル・サーデクの行動でした。
イマーム・ジャアファル・サーデク以前にも、誰がイマームの地位を継承したか、すべきかということで解釈が分かれ、いくつか小分派が存在していましたが、イマーム・ジャアファル・サーデクの存命中にも、イマーム位の継承を巡ってトラブルがありました。
イマームははじめ、長子であるイスマーイールを後継者としていましたが、イスマーイールは長ずるに従って飲酒などの悪癖を見せるようになり、イマーム・ジャアファル・サーデクはその後継者の任命を取り消し、イスマーイールの弟であるムーサーを後継者としました。
イスマーイールはイマーム・ジャアファル・サーデクの存命中に亡くなりましたが、イスマーイールの後継者任命の取り消しを認めない一派は、イスマーイールこそがシーア派第7代目イマームであり、イスマーイールが後継者を任命せずに亡くなったからには彼が最後のイマームであると主張するようになり、7イマーム派と呼ばれる一派を成すようになりました。
この一派とは別に、イスマーイールの子どもであるムハンマドにイマームの位が継承されたと主張する一派も現れ、ムバーラク派と呼ばれました。後にこのムバーラク派がイスマーイール派の中心を成すようになりました。
このように、シーア派の分派をいくつも作るきっかけとなったのが、イマーム・ジャアファル・サーデクによる後継者の変更だったのです。12イマーム派はイマーム・ジャアファル・サーデクの判断に誤りはなかったとして、ムーサーがイマーム位を継いだと考えており、このため、12イマーム派を別名ジャアファル派とも言います。
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イラン暦オルディーベヘシュト月5日、イスラーム・ヒジュラ暦ラビー・アル=アッワル月16日、西暦4月25日
1979年にイラン・イスラーム革命が起こり、急進的な学生たちをはじめとする若者が、反アメリカを掲げる革命スローガンに忠実に従い、アメリカ大使館を襲撃、選挙するという事件が起こりました。このアメリカ大使館占拠は長期化し、アメリカは大使館内に人質となっているアメリカ人を救出するために様々な手を尽くしていました。
それにもかかわらず、大使館占拠は1年を超え、アメリカは軍を使っての救出作戦を決行するに至りました。
アメリカ空軍の作戦機がイラン領空に侵入し、テヘランに向かおうとしましたが、イラン東部の沙漠地帯にある町タバス付近で墜落し、作戦は失敗に終わりました。
この墜落に関しては、イランが何かをしたわけではなく、ほぼ偶然に起こったものなのですが、イランでは今でもこの日を、「アメリカ軍が作戦に失敗した日」として記念行事を行っています。
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1979年にイラン・イスラーム革命が起こり、急進的な学生たちをはじめとする若者が、反アメリカを掲げる革命スローガンに忠実に従い、アメリカ大使館を襲撃、選挙するという事件が起こりました。このアメリカ大使館占拠は長期化し、アメリカは大使館内に人質となっているアメリカ人を救出するために様々な手を尽くしていました。
それにもかかわらず、大使館占拠は1年を超え、アメリカは軍を使っての救出作戦を決行するに至りました。
アメリカ空軍の作戦機がイラン領空に侵入し、テヘランに向かおうとしましたが、イラン東部の沙漠地帯にある町タバス付近で墜落し、作戦は失敗に終わりました。
この墜落に関しては、イランが何かをしたわけではなく、ほぼ偶然に起こったものなのですが、イランでは今でもこの日を、「アメリカ軍が作戦に失敗した日」として記念行事を行っています。
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先日お話しした、花粉症のアレルゲンの特定ができました。
結果をプリントした表を見て先生が一言、「ああ、これはもう通年アレルギーですね」
杉、檜、ヨモギ、ブタクサ、モガヤにアレルギー反応を示しているのだそうです。そして一緒にもらったグラフによると、確かにそれぞれが時期をずらして、ほぼ一年を通じてアレルギー反応を起こすようです。日本へ帰ってくるのをやめようと思ってしまった瞬間でした。
上に上げた五つのうち、杉とヨモギが一番ひどいようなのですが、両方ともイランにはあるので、イランにいても実は変わらないというのもちょっとつらい話です。
日本の杉花粉アレルギーの原因の一つは、戦後、全国で盛んに行われた杉植林であると言われていますが、実は同じことがイランでも行われつつあります。
放っておけば草木が繁る日本と違ってカスピ海岸をのぞくイランでは、水が少ないという条件から、徹底的に人が手をかけてやらなくては緑、特に樹木は育ちません。緑あふれる庭園というのは金持ちにだけ許された贅沢なのです。そのため、イランの有名な歴史的庭園というのはすべて王侯貴族によって水が引かれ、手入れされたものです。緑の国土というのは中東の人々にとって夢であり、あこがれと言って良いほどで、文学作品や絵画などをみればそれは明らかです。
こうした緑への渇望を受けてか、近年、イランでは各地で植樹が行われています。テレビや新聞を見れば「今日は○○○で○○○が出席して植樹祭が行われました」などというニュースはいくらでも見つけられます。
問題は、こうした植樹のほとんどが杉だということです。何年か後にはイランも杉花粉に悩まされる人が急増するのではないかと心配になるほどです。
イランでは杉と言えば糸杉ですが、これは手入れが簡単で、早く育つからあちこちで植樹をされているのだと聞いています。日本のように木材として利用できるからという理由ばかりではないようです。
テヘランから地方へ出る街道を走っていると、街道沿いに糸杉の植樹された場所をいくらでも見ることができます。これが育って、花粉をまき散らすようになったらどうなるのやらと頭の痛いところです。日本の関係機関には、ぜひ、「日本の経験」をイランに移転していただきたいものだと思ってしまったのでした。

こんな荒野にまで糸杉の植林。本当に育つのかどうか不安になるくらい。
イラン文学では、糸杉のすっきりと伸びた姿から、ほっそりとした腰のすらりとした姿の美男美女を糸杉に喩えます。「糸杉のような美女(美男)」というのは最高級の賛辞です。そういえば、女の子の名前に、糸杉(sarv)の複数形を使ったサルヴィーンがあります。これもその姿の美しさから取られた名前でしょう。
その一方で、糸杉といえば「墓地の木」というイメージもあったりします。写真のように、墓の頭の位置に故人をしのんで家族などが糸杉を植えるのです。もちろんこれは糸杉である必要はないのですが、糸杉を植えることが多く、そのため糸杉=墓地のイメージがついてしまっているようです。
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結果をプリントした表を見て先生が一言、「ああ、これはもう通年アレルギーですね」
杉、檜、ヨモギ、ブタクサ、モガヤにアレルギー反応を示しているのだそうです。そして一緒にもらったグラフによると、確かにそれぞれが時期をずらして、ほぼ一年を通じてアレルギー反応を起こすようです。日本へ帰ってくるのをやめようと思ってしまった瞬間でした。
上に上げた五つのうち、杉とヨモギが一番ひどいようなのですが、両方ともイランにはあるので、イランにいても実は変わらないというのもちょっとつらい話です。
日本の杉花粉アレルギーの原因の一つは、戦後、全国で盛んに行われた杉植林であると言われていますが、実は同じことがイランでも行われつつあります。
放っておけば草木が繁る日本と違ってカスピ海岸をのぞくイランでは、水が少ないという条件から、徹底的に人が手をかけてやらなくては緑、特に樹木は育ちません。緑あふれる庭園というのは金持ちにだけ許された贅沢なのです。そのため、イランの有名な歴史的庭園というのはすべて王侯貴族によって水が引かれ、手入れされたものです。緑の国土というのは中東の人々にとって夢であり、あこがれと言って良いほどで、文学作品や絵画などをみればそれは明らかです。
こうした緑への渇望を受けてか、近年、イランでは各地で植樹が行われています。テレビや新聞を見れば「今日は○○○で○○○が出席して植樹祭が行われました」などというニュースはいくらでも見つけられます。
問題は、こうした植樹のほとんどが杉だということです。何年か後にはイランも杉花粉に悩まされる人が急増するのではないかと心配になるほどです。
イランでは杉と言えば糸杉ですが、これは手入れが簡単で、早く育つからあちこちで植樹をされているのだと聞いています。日本のように木材として利用できるからという理由ばかりではないようです。
テヘランから地方へ出る街道を走っていると、街道沿いに糸杉の植樹された場所をいくらでも見ることができます。これが育って、花粉をまき散らすようになったらどうなるのやらと頭の痛いところです。日本の関係機関には、ぜひ、「日本の経験」をイランに移転していただきたいものだと思ってしまったのでした。

こんな荒野にまで糸杉の植林。本当に育つのかどうか不安になるくらい。
イラン文学では、糸杉のすっきりと伸びた姿から、ほっそりとした腰のすらりとした姿の美男美女を糸杉に喩えます。「糸杉のような美女(美男)」というのは最高級の賛辞です。そういえば、女の子の名前に、糸杉(sarv)の複数形を使ったサルヴィーンがあります。これもその姿の美しさから取られた名前でしょう。
その一方で、糸杉といえば「墓地の木」というイメージもあったりします。写真のように、墓の頭の位置に故人をしのんで家族などが糸杉を植えるのです。もちろんこれは糸杉である必要はないのですが、糸杉を植えることが多く、そのため糸杉=墓地のイメージがついてしまっているようです。
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先日ご紹介したバルーチの女の子の服装についていくつかコメントをいただきました。そこで今回はバルーチの女性たちの衣装のご紹介です。

これはバルーチェスターン地方北部でよく見られるスタイル。
前身頃と前たて、袖口とズボンの裾に赤をベースにした布に刺繍をしたものをつけ、服の地は黒やグレーなど地味な色合い。
スカート部分に取り付けられた縦長の刺繍はポケットにもなっている。
写真は、ある墓地で出会った兄弟たち。

こちらはバルーチェスターン地方南部で見られる服装。スタイルとしては上のものと同じだが、カラフルな布を使い、刺繍も上のスタイルではシンプルなものが多いが、こちらは花柄など手の込んだ刺繍が多い。またおしゃれ用に鏡の入ったものも見られる。
写真はティースという古い港町で出会った女の子。カメラを向けたら恥ずかしがって顔を隠してしまった。
上の写真の一番上のお姉さんもそうだが、ある年齢以上の女の子は、華やかな刺繍のされた薄いベールを上半身に巻き付けるようにしてかぶっている。

パキスタンとの国境の町、スィースターン・バルーチェスターン州の州都ザーヘダーンのバーザールで。
ザーヘダーンのバーザールには、女性の衣装に使われる刺繍された布を売る一角があり、新しい衣装を作ろうとする女性たちと夫たちでいつもにぎわっている。
これらの刺繍は、村などで女性たちが手で行ったものとのこと。農村女性の内職の一つ。一つの衣装を作るのに必要な刺繍を行うのに一ヶ月近くかかるという。私も一組買ってきたが、約60ドルという、現地の物価レベルから見たら結構な金額だった。

ティースの村で。
我々がお茶をごちそうになっている部屋の隅で女の子が刺繍をしていた。話を聞いてみたら、自分のいとこのためとのこと。刺繍の文様はお母さんから習ったものもあれば、自分で考えたものもあるという。
最近では、町などではミシン刺繍によるものも多く見られる。おもしろいのは、ミシン刺繍は男性の仕事だということ。イーラーンシャフルという町では、ミシン刺繍を行う店が固まっている一角ある。写真を撮ってきたはずなのだが、見つからないのでご紹介できないのが残念。

こちらは天幕の中で刺繍をしていたおばさん。伝統的なバルーチの刺繍。
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これはバルーチェスターン地方北部でよく見られるスタイル。
前身頃と前たて、袖口とズボンの裾に赤をベースにした布に刺繍をしたものをつけ、服の地は黒やグレーなど地味な色合い。
スカート部分に取り付けられた縦長の刺繍はポケットにもなっている。
写真は、ある墓地で出会った兄弟たち。

こちらはバルーチェスターン地方南部で見られる服装。スタイルとしては上のものと同じだが、カラフルな布を使い、刺繍も上のスタイルではシンプルなものが多いが、こちらは花柄など手の込んだ刺繍が多い。またおしゃれ用に鏡の入ったものも見られる。
写真はティースという古い港町で出会った女の子。カメラを向けたら恥ずかしがって顔を隠してしまった。
上の写真の一番上のお姉さんもそうだが、ある年齢以上の女の子は、華やかな刺繍のされた薄いベールを上半身に巻き付けるようにしてかぶっている。

パキスタンとの国境の町、スィースターン・バルーチェスターン州の州都ザーヘダーンのバーザールで。
ザーヘダーンのバーザールには、女性の衣装に使われる刺繍された布を売る一角があり、新しい衣装を作ろうとする女性たちと夫たちでいつもにぎわっている。
これらの刺繍は、村などで女性たちが手で行ったものとのこと。農村女性の内職の一つ。一つの衣装を作るのに必要な刺繍を行うのに一ヶ月近くかかるという。私も一組買ってきたが、約60ドルという、現地の物価レベルから見たら結構な金額だった。

ティースの村で。
我々がお茶をごちそうになっている部屋の隅で女の子が刺繍をしていた。話を聞いてみたら、自分のいとこのためとのこと。刺繍の文様はお母さんから習ったものもあれば、自分で考えたものもあるという。
最近では、町などではミシン刺繍によるものも多く見られる。おもしろいのは、ミシン刺繍は男性の仕事だということ。イーラーンシャフルという町では、ミシン刺繍を行う店が固まっている一角ある。写真を撮ってきたはずなのだが、見つからないのでご紹介できないのが残念。

こちらは天幕の中で刺繍をしていたおばさん。伝統的なバルーチの刺繍。
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イラン暦オルディーベヘシュト月1日、イスラーム・ヒジュラ暦ラビー・アル=アッワル月12日、西暦4月21日
この日は、イランで最も有名な詩人の一人、サアディーの記念日です。
イランは韻文学の国であると言うことができるくらい、イランは多くの優れた詩人を生み出してきましたし、イランの人々は詩を愛してきました。現代でも、幼稚園の頃からイラン人は詩に親しみ、古典や現代詩を問わず、詩を暗唱できる人が多く、演説や講演の中で、あるいは日常会話の中ですら、詩の一節を織り交ぜながら話を進めることが気の利いたことであると考えられています。
数多くの優れた詩人を生み出してきたイランですが、古典詩の分野で特に優れた詩人の一人がサアディーです。
サアディーは西暦13世紀の初頭に、シーラーズで生まれました。幼い頃に父を亡くし、祖父や叔父の世話になりながら基礎的な学問を修め、更に高度な学問を学ぶため、その当時最も名高い学問の中心地であったバグダードへ行き、そこで学びました。
しばらくバグダードに留まり、学んだり教えたりして過ごしていましたが、ある時、思い立ち、一ダルヴィーシュ(托鉢僧)として放浪の旅へと出立しました。どのくらいの期間、旅をしていたかは明らかではありませんし、どのような場所を訪れたのかもはっきりとはしていませんが、恐らく20年以上を旅の中で過ごし、その当時のイスラーム圏のほとんどを訪れていたと考えられています。
このたびの中で、結婚したり、子どもに死別したりという体験をし、また、十字軍のフランク人によって捕らえられたりという経験をし、また各地の様々な階層の人々と接してきました。こうした体験は、サアディーの作品に大きな影響を与えました。
サアディーが故郷であるシーラーズに帰ってきたのは西暦1256年のことでした。シーラーズに戻るとすぐに彼は詩作をはじめ、その名を知られるようになりました。
サアディーの最も有名な作品『ブースターン(香りの園)』と『ゴレスターン(薔薇園)』は、教訓的な内容を持つ作品であり、彼自身の体験談や逸話、物語を交え、簡潔且つ巧みな文学的なスタイルで、倫理を説いています。内容のおもしろさとその流麗で気品ある文体から、この二つの作品はイラン文学史における最高傑作と見なされています。
サアディーの墓は、シーラーズの郊外にあり、現在はそこに美しい廟が作られ、詩を愛好する人たちが訪れる場所となっています。
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この日は、イランで最も有名な詩人の一人、サアディーの記念日です。
イランは韻文学の国であると言うことができるくらい、イランは多くの優れた詩人を生み出してきましたし、イランの人々は詩を愛してきました。現代でも、幼稚園の頃からイラン人は詩に親しみ、古典や現代詩を問わず、詩を暗唱できる人が多く、演説や講演の中で、あるいは日常会話の中ですら、詩の一節を織り交ぜながら話を進めることが気の利いたことであると考えられています。
数多くの優れた詩人を生み出してきたイランですが、古典詩の分野で特に優れた詩人の一人がサアディーです。
サアディーは西暦13世紀の初頭に、シーラーズで生まれました。幼い頃に父を亡くし、祖父や叔父の世話になりながら基礎的な学問を修め、更に高度な学問を学ぶため、その当時最も名高い学問の中心地であったバグダードへ行き、そこで学びました。
しばらくバグダードに留まり、学んだり教えたりして過ごしていましたが、ある時、思い立ち、一ダルヴィーシュ(托鉢僧)として放浪の旅へと出立しました。どのくらいの期間、旅をしていたかは明らかではありませんし、どのような場所を訪れたのかもはっきりとはしていませんが、恐らく20年以上を旅の中で過ごし、その当時のイスラーム圏のほとんどを訪れていたと考えられています。
このたびの中で、結婚したり、子どもに死別したりという体験をし、また、十字軍のフランク人によって捕らえられたりという経験をし、また各地の様々な階層の人々と接してきました。こうした体験は、サアディーの作品に大きな影響を与えました。
サアディーが故郷であるシーラーズに帰ってきたのは西暦1256年のことでした。シーラーズに戻るとすぐに彼は詩作をはじめ、その名を知られるようになりました。
サアディーの最も有名な作品『ブースターン(香りの園)』と『ゴレスターン(薔薇園)』は、教訓的な内容を持つ作品であり、彼自身の体験談や逸話、物語を交え、簡潔且つ巧みな文学的なスタイルで、倫理を説いています。内容のおもしろさとその流麗で気品ある文体から、この二つの作品はイラン文学史における最高傑作と見なされています。
サアディーの墓は、シーラーズの郊外にあり、現在はそこに美しい廟が作られ、詩を愛好する人たちが訪れる場所となっています。
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日本では中国での反日デモが毎日のように報道されています。イランのニュースサイトを見ても大きく取り上げられているようです。
このデモの中で繰り返されるのが、日本の「歴史認識」と「過去への反省」のようです。しかし、知り合いの中国研究者に言わせると、中国も同じようなことをしているのだそうです。
自国の過去をどう語るか、という問題は、その国の歴史、国内外の関係に対する意識をすべて表しているように思います。
イランでもこうした問題は存在しています。
なんと言っても、日本のような政権交代どころか、統治体制がころころと変わってきた国ですから、過去をどう評価するかという問題は常に存在しています。
以前、N○Kが放送した『文明の道』というシリーズに伴って、展覧会が行われました。この展覧会の目玉として、これまで国外へ貸し出されたことがない作品が、イランからも出品される予定でした。ところが、番組タイトルに「アレクサンダー」という名前が入っているからということで交渉は決裂してしまったのです。
イランにおいて、古代ギリシアの英雄「アレクサンドロス」というのは「侵略者」と同義語です。東はアフガニスタンから西はエジプトまでを支配した「ハハーマネシー(アケメネス)王朝」に、理由もなく攻め込み、滅ぼしたからです。
時代が下ると、イラン文学においてアレクサンドロスは侵略者ではなく、神秘的な力を持った人物として描かれるようになるのですが、政治的には「侵略者」です。特に、「イラン主義」を打ち出す現政権においてはこの傾向が顕著です。アレクサンドロスを肯定的に語ることができないのです。
こうしたアレクサンドロス像に対して、世界最初の「世界帝国」であるハハーマネシーの王たちは、公正であり、優れた文化と技術を持ち、バビロンに捕らわれていたユダヤ人を解放した正義の王として描かれます。
イラン東北部、グーチャーンという地方にクルド人が住んでいます。
イランのクルド人の大多数は、北西部のコルデスターン州を中心とした地域に住んでいます。このクルド人地域から遠く離れたグーチャーンに、どうしてクルド人が住んでいるのかというと、16〜17世紀に強制移住させられたからです。
その頃イランを統治していたサファヴィー朝の王たちは、剽悍な山岳民族であるクルド人を恐れていました。そしてその力をそごうと、彼らの一部をホラーサーン地方へと強制的に移住させたのです。そのクルド人の子孫が今でもグーチャーンを中心とした地域に住んでいるのです。彼らはクルド語を話し、クルド人としての文化を保持してはいますが、クルド人の中心から遠く離れて久しいため、言葉は変化し、他のクルド人たちとは物理的にも精神的にも距離が離れてしまいました。
この強制移住させられたクルド人について、イランの歴史の教科書では、「サファヴィー朝がウズベク人やなどの外敵の脅威にさらされていた時、イランの地を守ろうという愛国心に燃えたクルド人たちが、自らその前線であるホラーサーン地方へ移住した」と教えています。こうした教科書によって教育を受けた現代のイラン人は、グーチャーンのクルド人の強制移住の歴史的事実を知りません。

結局、歴史とは、このようにその時々の政権によって変えられてしまうものであるということはきちんと認識しておかなくてはいけないのだろうと思います。日本の教科書もそうですが、教科書は真実を書いてあるものではありません。意図的に真実を隠したり、事実を改竄していることすらあるということは、恐らく、日本のみならずどんな国でも見られることでしょう。
大学の授業で、N○Kが二十数年前に放送した『シルクロード』シリーズや中東関連ニュース、教科書を見て、間違い探しをするというものがありました。この時に、情報を鵜呑みにする怖さを知りました。
忙しい日々を送る中、情報を集めるというのは難しいですが、できるだけ多くの情報に触れるようにしたいものです。

写真はグーチャーンのチャイハーネで会ったクルド人のおじいさんたち。
ちなみに、N○K『シルクロード』の旧シリーズでもグーチャーンのクルド人について触れています、そこでは「くっちゃん・クルド人」と紹介されており、放送当時子供だった私は「北海道みたいな地名だなあ」と思ったことを覚えています。その後、大学で「グーチャーン」の古い発音が「クーチャーン」であり、クルド人が住む地域であると知り、「あのときの地名はこれだったのか!!」とびっくりしたのでした。
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このデモの中で繰り返されるのが、日本の「歴史認識」と「過去への反省」のようです。しかし、知り合いの中国研究者に言わせると、中国も同じようなことをしているのだそうです。
自国の過去をどう語るか、という問題は、その国の歴史、国内外の関係に対する意識をすべて表しているように思います。
イランでもこうした問題は存在しています。
なんと言っても、日本のような政権交代どころか、統治体制がころころと変わってきた国ですから、過去をどう評価するかという問題は常に存在しています。
以前、N○Kが放送した『文明の道』というシリーズに伴って、展覧会が行われました。この展覧会の目玉として、これまで国外へ貸し出されたことがない作品が、イランからも出品される予定でした。ところが、番組タイトルに「アレクサンダー」という名前が入っているからということで交渉は決裂してしまったのです。
イランにおいて、古代ギリシアの英雄「アレクサンドロス」というのは「侵略者」と同義語です。東はアフガニスタンから西はエジプトまでを支配した「ハハーマネシー(アケメネス)王朝」に、理由もなく攻め込み、滅ぼしたからです。
時代が下ると、イラン文学においてアレクサンドロスは侵略者ではなく、神秘的な力を持った人物として描かれるようになるのですが、政治的には「侵略者」です。特に、「イラン主義」を打ち出す現政権においてはこの傾向が顕著です。アレクサンドロスを肯定的に語ることができないのです。
こうしたアレクサンドロス像に対して、世界最初の「世界帝国」であるハハーマネシーの王たちは、公正であり、優れた文化と技術を持ち、バビロンに捕らわれていたユダヤ人を解放した正義の王として描かれます。
イラン東北部、グーチャーンという地方にクルド人が住んでいます。
イランのクルド人の大多数は、北西部のコルデスターン州を中心とした地域に住んでいます。このクルド人地域から遠く離れたグーチャーンに、どうしてクルド人が住んでいるのかというと、16〜17世紀に強制移住させられたからです。
その頃イランを統治していたサファヴィー朝の王たちは、剽悍な山岳民族であるクルド人を恐れていました。そしてその力をそごうと、彼らの一部をホラーサーン地方へと強制的に移住させたのです。そのクルド人の子孫が今でもグーチャーンを中心とした地域に住んでいるのです。彼らはクルド語を話し、クルド人としての文化を保持してはいますが、クルド人の中心から遠く離れて久しいため、言葉は変化し、他のクルド人たちとは物理的にも精神的にも距離が離れてしまいました。
この強制移住させられたクルド人について、イランの歴史の教科書では、「サファヴィー朝がウズベク人やなどの外敵の脅威にさらされていた時、イランの地を守ろうという愛国心に燃えたクルド人たちが、自らその前線であるホラーサーン地方へ移住した」と教えています。こうした教科書によって教育を受けた現代のイラン人は、グーチャーンのクルド人の強制移住の歴史的事実を知りません。

結局、歴史とは、このようにその時々の政権によって変えられてしまうものであるということはきちんと認識しておかなくてはいけないのだろうと思います。日本の教科書もそうですが、教科書は真実を書いてあるものではありません。意図的に真実を隠したり、事実を改竄していることすらあるということは、恐らく、日本のみならずどんな国でも見られることでしょう。
大学の授業で、N○Kが二十数年前に放送した『シルクロード』シリーズや中東関連ニュース、教科書を見て、間違い探しをするというものがありました。この時に、情報を鵜呑みにする怖さを知りました。
忙しい日々を送る中、情報を集めるというのは難しいですが、できるだけ多くの情報に触れるようにしたいものです。

写真はグーチャーンのチャイハーネで会ったクルド人のおじいさんたち。
ちなみに、N○K『シルクロード』の旧シリーズでもグーチャーンのクルド人について触れています、そこでは「くっちゃん・クルド人」と紹介されており、放送当時子供だった私は「北海道みたいな地名だなあ」と思ったことを覚えています。その後、大学で「グーチャーン」の古い発音が「クーチャーン」であり、クルド人が住む地域であると知り、「あのときの地名はこれだったのか!!」とびっくりしたのでした。
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日本に帰って以来、くしゃみ、鼻水、目のかゆみに襲われるようになりました。はじめは風邪でも引いたかと思っていたのですが、周囲の人たちの見立てによると花粉症以外の何ものでもないとのこと。アレルギーとはそれほど縁のない生活を送ってきたのですが、イランでじわじわとアレルギーのもとをため込んでいたようです。
早めに対策を立てるに越したことはないとのアドバイスにより、今日は朝一番で近所のクリニックへ。採血と採尿を行い、結果が出るのは来週。しかし先生によればほぼ花粉症で間違いないでしょうとのこと。
ひどい花粉症の友人たちが、この時期は仕事にならないと言っていましたが、本当にその通りです。集中力が持続しないので大変です。仕方がないので、これまで8年間で撮りためたポジをスキャンしてコンピューターに取り込むという単純作業に従事することにしました。しかしこれも、300本を超えるのでなかなか大変です。
写真を取り込みながら、この時はこうだった、などと懐かしく思い出しながら、くしゃみを連発する毎日です。

写真は私のアパートから見た早朝のアルボルズの山々。テヘランは大気汚染がひどく、週末の朝の一時くらいしか、きれいに山々が見えない。
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早めに対策を立てるに越したことはないとのアドバイスにより、今日は朝一番で近所のクリニックへ。採血と採尿を行い、結果が出るのは来週。しかし先生によればほぼ花粉症で間違いないでしょうとのこと。
ひどい花粉症の友人たちが、この時期は仕事にならないと言っていましたが、本当にその通りです。集中力が持続しないので大変です。仕方がないので、これまで8年間で撮りためたポジをスキャンしてコンピューターに取り込むという単純作業に従事することにしました。しかしこれも、300本を超えるのでなかなか大変です。
写真を取り込みながら、この時はこうだった、などと懐かしく思い出しながら、くしゃみを連発する毎日です。

写真は私のアパートから見た早朝のアルボルズの山々。テヘランは大気汚染がひどく、週末の朝の一時くらいしか、きれいに山々が見えない。
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先日はスィースターン地方の国境を越える密貿易についてお話ししましたが、今度はバルーチェスターン地方の国境についてです。
バルーチェスターン地方に住むのは、先日もお話ししたように、バルーチ族です。彼らは政治的にパキスタンとイランに分けられていますが、イラン西部に住むバルーチ族と同じ人々です。彼らはバルーチ語と呼ばれるイラン系言語の一種を話し、独特の文化を持っています。
スィースターン地方のアフガニスタンとの国境は、道路が引かれている部分は国境ゲートがあり、国境警備隊がそこを警備していますが、そのほかの部分については放置されているに近い状態です。
バルーチェスターン地方でも似たような状態ですが、町や村が国境に近い場合、フェンスが設けられ、自由に行き来ができないようになっています。
ところがこれもよく見ると、フェンスが所々破られていて、人々は自由にそこを行き来しているのです。
イラン側のバルーチェスターン地方は干ばつのため、農業が厳しい状態にありますが、パキスタン側ではそれほどでもなく、野菜がイラン側よりずっと安いとのこと。そのため、イラン側のバルーチの人々がフェンスの破れ目を通ってパキスタン側へ行き、野菜などを買ってまたイラン側へ戻ってくるのです。
バルーチェスターン地方の国境ゲートの一つへ行ってみると、国境ゲートにほど近いフェンスが一部破られていて、そこを野菜を荷台に載せたおじさんが自転車でちりちりと通って行くのが見えたりします。外国人が通ったら問題なのでしょうが、バルーチの衣服を着た人たちがそこを通る分には黙認されているようです。
彼らにとって、国境とされている線の向こう側も、自分たちと同じ部族の人たちが住み暮らす土地にすぎないのです。彼らにとって国境などなきに等しいのだということと、国境というのは本当に政治にすぎないのだなあとしみじみ感じさせてくれる光景です。

写真はバルーチの女の子。カラフルな色遣いとそこに施された独特の刺繍がバルーチの女性たちの衣装の特徴。
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バルーチェスターン地方に住むのは、先日もお話ししたように、バルーチ族です。彼らは政治的にパキスタンとイランに分けられていますが、イラン西部に住むバルーチ族と同じ人々です。彼らはバルーチ語と呼ばれるイラン系言語の一種を話し、独特の文化を持っています。
スィースターン地方のアフガニスタンとの国境は、道路が引かれている部分は国境ゲートがあり、国境警備隊がそこを警備していますが、そのほかの部分については放置されているに近い状態です。
バルーチェスターン地方でも似たような状態ですが、町や村が国境に近い場合、フェンスが設けられ、自由に行き来ができないようになっています。
ところがこれもよく見ると、フェンスが所々破られていて、人々は自由にそこを行き来しているのです。
イラン側のバルーチェスターン地方は干ばつのため、農業が厳しい状態にありますが、パキスタン側ではそれほどでもなく、野菜がイラン側よりずっと安いとのこと。そのため、イラン側のバルーチの人々がフェンスの破れ目を通ってパキスタン側へ行き、野菜などを買ってまたイラン側へ戻ってくるのです。
バルーチェスターン地方の国境ゲートの一つへ行ってみると、国境ゲートにほど近いフェンスが一部破られていて、そこを野菜を荷台に載せたおじさんが自転車でちりちりと通って行くのが見えたりします。外国人が通ったら問題なのでしょうが、バルーチの衣服を着た人たちがそこを通る分には黙認されているようです。
彼らにとって、国境とされている線の向こう側も、自分たちと同じ部族の人たちが住み暮らす土地にすぎないのです。彼らにとって国境などなきに等しいのだということと、国境というのは本当に政治にすぎないのだなあとしみじみ感じさせてくれる光景です。

写真はバルーチの女の子。カラフルな色遣いとそこに施された独特の刺繍がバルーチの女性たちの衣装の特徴。
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イラン暦ファルヴァルディーン月25日、イスラーム・ヒジュラ暦ラビー・アル=アッワル月5日、西暦4月14日
この日は、イランの神秘主義詩人、アッタール・ニーシャープーリー(ネイシャーブーリーとも)の記念日です。
アッタールはイラン文学史における神秘主義詩の偉大なる先駆者の一人に数えられる詩人です。
彼は本名をファリード・ウッディーン・ムハンマドと言い、ホラーサーン地方の中心的な都市であったニーシャープールで生まれました。薬屋を生業としていたため、薬屋を表す「アッタール」を雅号として用いたと言われています。
彼は医者としても名を成していたらしく、彼の作品中には彼が医師として働いていた様子が詠まれています。
アッタールの生涯はその詩が有名であるにもかかわらずよく分かっていません。恐らく、1142年頃に生まれ、1221年に殺されたと研究者の間では考えられています。この1221年というのは、ニーシャープールにモンゴル人が攻め込み、殺戮を行った年であり、この殺戮の中でアッタールも殺されたと考えられています。
彼の生涯がよく分かっていないため、なぜ彼が神秘主義に目覚めたかは分かっていませんが、彼の作品は全て神秘主義的な色合いを持った作品です。また、彼は非常に多作な詩人であり、そのため、彼の作品の真贋については議論が分かれるところでありますが、彼の新作であるとされている作品の中で最も有名なものが、『鳥の言葉(マンテクッ・タイル、現代ペルシア語の発音ではマンテゴッ・テイル)』です。この作品は、神秘主義道を目指す修行者を鳥にたとえ、神秘主義の最終的な到達地点である神との合一を目指し、修行する様子が、鳥の帝王である不死鳥(スィームルグ、現代ペルシア語の発音ではスィーモルグ)を目指し、様々な危険な地を乗り越えていく様子として比喩的に描かれています。
現在、ニーシャーブールの郊外にあるアッタールの墓とされる場所には、小さな廟が作られ、ニーシャープールを訪れる人が必ず訪れる場所となっています。
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この日は、イランの神秘主義詩人、アッタール・ニーシャープーリー(ネイシャーブーリーとも)の記念日です。
アッタールはイラン文学史における神秘主義詩の偉大なる先駆者の一人に数えられる詩人です。
彼は本名をファリード・ウッディーン・ムハンマドと言い、ホラーサーン地方の中心的な都市であったニーシャープールで生まれました。薬屋を生業としていたため、薬屋を表す「アッタール」を雅号として用いたと言われています。
彼は医者としても名を成していたらしく、彼の作品中には彼が医師として働いていた様子が詠まれています。
アッタールの生涯はその詩が有名であるにもかかわらずよく分かっていません。恐らく、1142年頃に生まれ、1221年に殺されたと研究者の間では考えられています。この1221年というのは、ニーシャープールにモンゴル人が攻め込み、殺戮を行った年であり、この殺戮の中でアッタールも殺されたと考えられています。
彼の生涯がよく分かっていないため、なぜ彼が神秘主義に目覚めたかは分かっていませんが、彼の作品は全て神秘主義的な色合いを持った作品です。また、彼は非常に多作な詩人であり、そのため、彼の作品の真贋については議論が分かれるところでありますが、彼の新作であるとされている作品の中で最も有名なものが、『鳥の言葉(マンテクッ・タイル、現代ペルシア語の発音ではマンテゴッ・テイル)』です。この作品は、神秘主義道を目指す修行者を鳥にたとえ、神秘主義の最終的な到達地点である神との合一を目指し、修行する様子が、鳥の帝王である不死鳥(スィームルグ、現代ペルシア語の発音ではスィーモルグ)を目指し、様々な危険な地を乗り越えていく様子として比喩的に描かれています。
現在、ニーシャーブールの郊外にあるアッタールの墓とされる場所には、小さな廟が作られ、ニーシャープールを訪れる人が必ず訪れる場所となっています。
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イラン暦ファルヴァルディーン月25日、イスラーム・ヒジュラ暦ラビー・アル=アッワル月5日、西暦4月14日
この日は12イマーム・シーア派第11代目イマーム・ハサン・アスカリー(現代ペルシア語ではアスキャリー、アスギャリーとも)の殉教日です。
イマームも11人目となると書くこともあまりないのですが、このイマームは、12イマーム派にとって最も重要なイマームであり、救世主であるマフディーの父親として重要な位置にあります。
彼は28歳で暗殺され、殉教するに至ったとされていますが、マフディーはその一人息子です。イマーム・ハサン・アスカリーは息子が暗殺されてしまうことがないよう、5年間、息子の存在を隠し続け、自分の手元で大切に育てました。
しかし、イスラーム・ヒジュラ暦260年のこの日(西暦873年12月29日)、イマーム・ハサン・アスカリーは時の支配者であったアッバース朝のカリフによって暗殺され、まだ幼いマフディーだけが残されてしまったのでした。
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この日は12イマーム・シーア派第11代目イマーム・ハサン・アスカリー(現代ペルシア語ではアスキャリー、アスギャリーとも)の殉教日です。
イマームも11人目となると書くこともあまりないのですが、このイマームは、12イマーム派にとって最も重要なイマームであり、救世主であるマフディーの父親として重要な位置にあります。
彼は28歳で暗殺され、殉教するに至ったとされていますが、マフディーはその一人息子です。イマーム・ハサン・アスカリーは息子が暗殺されてしまうことがないよう、5年間、息子の存在を隠し続け、自分の手元で大切に育てました。
しかし、イスラーム・ヒジュラ暦260年のこの日(西暦873年12月29日)、イマーム・ハサン・アスカリーは時の支配者であったアッバース朝のカリフによって暗殺され、まだ幼いマフディーだけが残されてしまったのでした。
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以前お話ししたとおり、私の誕生日は10月です。
実は去年が私の運転免許書の更新年で、誕生日から一ヶ月以内に更新をしなければいけませんでした。ところが、ちょうどその頃は、論文の最終的なチェックや審査のことなどでとてもではないですが、日本へ帰る余裕などありませんでした。失効してから六ヶ月以内なら更新は可能ということだったので、とりあえず論文を優先したのです。
そして、まだ証明書は発行されていませんが、とりあえず身動きができるようになり、また日本でいくつかやっておくべきことができたので、一時帰国をすることにしました。
そして、先日、免許書の更新に行ってきました。
失効窓口で書類を提出し、やむない理由であった証明としてパスポートの出入国スタンプを提示したところ、どこへ留学していたの、と聞かれました。「イランです」と答えた私をまじまじと見て、受付の女性は言いました。「無事に帰ってこれて良かったわね」
やっぱりそうくるか、と苦笑をする気にもなれませんでした。
彼女がどんな情報を元に、イランが危険な国であると言うのか分かりませんが、日本の中東諸国に対するイメージはそんなものなのだなあと、改めて感じたのでした。
外からニュースだけ見ていると、日本も十分に危ない国に見えるんだけどね、と心の中でだけ言い返したのでした。
ただ、やっぱり日本はいいな、と思うのは、私のようなケースではどのような書類が必要なのか、ちゃんとインターネットで調べ、また直接電話をして確認し、必要書類と受付時間を教えてもらえ、本当にその通りということです。イランなら、たとえ問い合わせたところで、実際に手続きに行ってみると、やっぱりこの書類も必要、この書類はいらなかった、今日は担当者がいない等々、一つの手続きのために何度も同じ場所に通うことになるだろうと断言できてしまいます。
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実は去年が私の運転免許書の更新年で、誕生日から一ヶ月以内に更新をしなければいけませんでした。ところが、ちょうどその頃は、論文の最終的なチェックや審査のことなどでとてもではないですが、日本へ帰る余裕などありませんでした。失効してから六ヶ月以内なら更新は可能ということだったので、とりあえず論文を優先したのです。
そして、まだ証明書は発行されていませんが、とりあえず身動きができるようになり、また日本でいくつかやっておくべきことができたので、一時帰国をすることにしました。
そして、先日、免許書の更新に行ってきました。
失効窓口で書類を提出し、やむない理由であった証明としてパスポートの出入国スタンプを提示したところ、どこへ留学していたの、と聞かれました。「イランです」と答えた私をまじまじと見て、受付の女性は言いました。「無事に帰ってこれて良かったわね」
やっぱりそうくるか、と苦笑をする気にもなれませんでした。
彼女がどんな情報を元に、イランが危険な国であると言うのか分かりませんが、日本の中東諸国に対するイメージはそんなものなのだなあと、改めて感じたのでした。
外からニュースだけ見ていると、日本も十分に危ない国に見えるんだけどね、と心の中でだけ言い返したのでした。
ただ、やっぱり日本はいいな、と思うのは、私のようなケースではどのような書類が必要なのか、ちゃんとインターネットで調べ、また直接電話をして確認し、必要書類と受付時間を教えてもらえ、本当にその通りということです。イランなら、たとえ問い合わせたところで、実際に手続きに行ってみると、やっぱりこの書類も必要、この書類はいらなかった、今日は担当者がいない等々、一つの手続きのために何度も同じ場所に通うことになるだろうと断言できてしまいます。
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テヘランで、「地方へは旅行したことがある?」とよく聞かれます。「もちろん」と答えると、たいていは「エスファハーンやシーラーズは行った?」「ショマール(カスピ海岸地方)へは行った?」と聞き返されます。日本で外国人に対して「京都へは行きましたか?」と聞くようなものです。
もちろん、そうした観光都市へも何度も行っていますが、私にとって一番インパクトのあった場所の一つは、スィースターン・バルーチェスターン州でした。その理由を一言で説明するのはとても難しいのですが。
スィースターン・バルーチェスターン州は、イラン東部でパキスタン、アフガニスタンと国境を接しています。スィースターン地方はイラン系の人が住む地方でペルシア語を話しますが、バルーチェスターン地方はバルーチ族が多く住み、バルーチ語を話し、スンニー派イスラームを信仰し、独自の文化を持っています。彼らはパキスタン側のバルーチと同じ言葉、文化を持つことから国境を越えてパキスタンとの往来が盛んです。
スィースターン・バルーチェスターン州は、テヘランから遠く離れ、スンニー派地域であることから、イラン国内で盛んに行われている開発から取り残されています。また、この数年間続いた大干魃の影響で、農業も壊滅的な打撃を受け、イランでもっとも貧しい地域の一つとなっています。
中央政府からの援助は望めない、産業は何もない、となるとできることは密輸くらいです。スィースターン・バルーチェスターン州はアフガニスタンからの麻薬密輸ルートの中継点となっています。アフガニスタンやパキスタンから入ってきた麻薬は、州都ザーヘダーンから西へ向かい、ケルマーンへ、そこからシーラーズへと向かい、イラン各地へと運ばれていきます。
そしてイラン側からの重要な密輸品はガソリンです。
スィースターン・バルーチェスターン州のガソリン・スタンドでは、ガソリンを買おうとしても売ってもらえないことがあります。これは、中央から運ばれるガソリンが少ないこと、ガソリンを買うのに許可が必要であること、それから何よりも地元住人による買い占めと密輸が行われていることによります。
アフガニスタンとの国境に近いスィースターン地方の中心都市ザーボルのガソリン・スタンドでは、スタンドの外にガソリンの密輸人がポリ容器を持って待っています。そしてガソリンを入れて外に出てきた自動車のタンクから、ガソリンの一部を買うのです。そうして集めたガソリンを、我々のように外から来た旅行者に、あるいは復興景気にわくアフガニスタンへと運ぶのです。
ザーボルでガソリン密輸を行っている人に話を聞きました。アフガニスタンへガソリンを持って行くと、イランの約二倍の値段で売れるとのこと。他に産業のないこの地方では重要な収入源です。
「日本車はわしらの役に立っているよ。30年も前のものだが、未だにペイカーン(イラン国産車の名前)より早い」
私が日本人だと知って、おじさんは自分の愛車のピックアップを自慢してくれました。日本ではもう生産されていないものですが、イランでは未だに現役です。
「国境警備隊とかに撃たれたりしないの?」と私が心配すると、何を言っているんだといわんばかりの口調で言いました。
「そんなの、道路がないところを走ればいいだけさ」
まったくもってそのとおりです。スィースターン地方のアフガニスタン国境はどこも平坦ですので、道路のないところを走ることもできるでしょう。それにしてもたくましいものです。


二回目にスィースターン・バルーチェスターン州に行ったのは、日本からいらした先生たちと一緒でした。先生たちはテヘランから四駆をチャーターしていたのですが、スィースターン・バルーチェスターン州に入ってから、給油ができなくなってしまいました。「一回10リットルしか売らない」
しかし、もともとガソリン・スタンドの数が少ないため、10リットルでは次のスタンドまで持つかどうか心もとありません。また、次のガソリン・スタンドにガソリンがあるかどうか、売ってもらえるかどうか保証はありません。
そこで、友人と私の二人でスタンドの職員に交渉です。
「外国から来た客に対して親切なのがイラン人でしょう?」と友人がソフトに迫り、私は「外国からの客にそんな冷たい扱いをして、もし道中でガス切れしたら、あなた、来世でどういう審判を受けるの?」と半ば脅迫。なんとかして20リットル売ってもらったのでした。
写真はスィースターン地方の村
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もちろん、そうした観光都市へも何度も行っていますが、私にとって一番インパクトのあった場所の一つは、スィースターン・バルーチェスターン州でした。その理由を一言で説明するのはとても難しいのですが。
スィースターン・バルーチェスターン州は、イラン東部でパキスタン、アフガニスタンと国境を接しています。スィースターン地方はイラン系の人が住む地方でペルシア語を話しますが、バルーチェスターン地方はバルーチ族が多く住み、バルーチ語を話し、スンニー派イスラームを信仰し、独自の文化を持っています。彼らはパキスタン側のバルーチと同じ言葉、文化を持つことから国境を越えてパキスタンとの往来が盛んです。
スィースターン・バルーチェスターン州は、テヘランから遠く離れ、スンニー派地域であることから、イラン国内で盛んに行われている開発から取り残されています。また、この数年間続いた大干魃の影響で、農業も壊滅的な打撃を受け、イランでもっとも貧しい地域の一つとなっています。
中央政府からの援助は望めない、産業は何もない、となるとできることは密輸くらいです。スィースターン・バルーチェスターン州はアフガニスタンからの麻薬密輸ルートの中継点となっています。アフガニスタンやパキスタンから入ってきた麻薬は、州都ザーヘダーンから西へ向かい、ケルマーンへ、そこからシーラーズへと向かい、イラン各地へと運ばれていきます。
そしてイラン側からの重要な密輸品はガソリンです。
スィースターン・バルーチェスターン州のガソリン・スタンドでは、ガソリンを買おうとしても売ってもらえないことがあります。これは、中央から運ばれるガソリンが少ないこと、ガソリンを買うのに許可が必要であること、それから何よりも地元住人による買い占めと密輸が行われていることによります。
アフガニスタンとの国境に近いスィースターン地方の中心都市ザーボルのガソリン・スタンドでは、スタンドの外にガソリンの密輸人がポリ容器を持って待っています。そしてガソリンを入れて外に出てきた自動車のタンクから、ガソリンの一部を買うのです。そうして集めたガソリンを、我々のように外から来た旅行者に、あるいは復興景気にわくアフガニスタンへと運ぶのです。
ザーボルでガソリン密輸を行っている人に話を聞きました。アフガニスタンへガソリンを持って行くと、イランの約二倍の値段で売れるとのこと。他に産業のないこの地方では重要な収入源です。
「日本車はわしらの役に立っているよ。30年も前のものだが、未だにペイカーン(イラン国産車の名前)より早い」
私が日本人だと知って、おじさんは自分の愛車のピックアップを自慢してくれました。日本ではもう生産されていないものですが、イランでは未だに現役です。
「国境警備隊とかに撃たれたりしないの?」と私が心配すると、何を言っているんだといわんばかりの口調で言いました。
「そんなの、道路がないところを走ればいいだけさ」
まったくもってそのとおりです。スィースターン地方のアフガニスタン国境はどこも平坦ですので、道路のないところを走ることもできるでしょう。それにしてもたくましいものです。


二回目にスィースターン・バルーチェスターン州に行ったのは、日本からいらした先生たちと一緒でした。先生たちはテヘランから四駆をチャーターしていたのですが、スィースターン・バルーチェスターン州に入ってから、給油ができなくなってしまいました。「一回10リットルしか売らない」
しかし、もともとガソリン・スタンドの数が少ないため、10リットルでは次のスタンドまで持つかどうか心もとありません。また、次のガソリン・スタンドにガソリンがあるかどうか、売ってもらえるかどうか保証はありません。
そこで、友人と私の二人でスタンドの職員に交渉です。
「外国から来た客に対して親切なのがイラン人でしょう?」と友人がソフトに迫り、私は「外国からの客にそんな冷たい扱いをして、もし道中でガス切れしたら、あなた、来世でどういう審判を受けるの?」と半ば脅迫。なんとかして20リットル売ってもらったのでした。
写真はスィースターン地方の村
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中東=砂漠というイメージを持つ人は多いと思います。もちろんそれが当てはまる国も多いのですが、イランはそうではありません。
イランは乾燥した地ではありますが、そのほとんどが土漠です。乾燥し、塩が吹き、わずかな草が生え、枯れているだけの荒れ地が延々と続く地なのです。
土漠の国イランにも少しだけ砂の砂漠が見られます。ヤズド周辺とスィースターン地方です。
スィースターン地方は、古い時代にはニームルーズとも呼ばれ、現在よりも広い範囲を指していたようです。今はイラン南東部、アフガニスタンと国境を接する辺境の一地方になっていますが、その昔は、イランの英雄叙事詩に英雄たちの故郷として詠われ、考古学的にも、紀元前からイスラーム期までの移籍が数多く発掘、調査され、文明の栄えた地であったことが知られています。
以前は繁栄していた地も現在は、すっかりへんぴな場所になってしまっています。特に私が訪れた2002年も2004年も、何年も続いた大干魃のため、農業は壊滅状態、湖は干上がって漁業もできないという状態でしたから、なお一層荒涼感があったようです。

スィースターン地方の中心都市、ザーボルの周辺一帯には砂地が広がっています。二十数年前にここを訪れた先生の話によると、登るのも大変な高さの砂丘がいくつも連なっていたそうです。中央アジアの鳴沙山のようなものかと尋ねたら、そんなものですというお返事でした。
ところが、私が訪れた時にはそうした砂丘は一つも見られませんでした。理由はよく分かりませんが、色々と話を聞いてみたところ、防砂林の影響によるものであるとか、気象変動の影響か強風が吹かなくなってしまい、砂が山を作らなくなってしまったとかいう話でした。
今では、写真のような風紋しか見られなくなってしまったスィースターンの砂漠なのでした。

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イランは乾燥した地ではありますが、そのほとんどが土漠です。乾燥し、塩が吹き、わずかな草が生え、枯れているだけの荒れ地が延々と続く地なのです。
土漠の国イランにも少しだけ砂の砂漠が見られます。ヤズド周辺とスィースターン地方です。
スィースターン地方は、古い時代にはニームルーズとも呼ばれ、現在よりも広い範囲を指していたようです。今はイラン南東部、アフガニスタンと国境を接する辺境の一地方になっていますが、その昔は、イランの英雄叙事詩に英雄たちの故郷として詠われ、考古学的にも、紀元前からイスラーム期までの移籍が数多く発掘、調査され、文明の栄えた地であったことが知られています。
以前は繁栄していた地も現在は、すっかりへんぴな場所になってしまっています。特に私が訪れた2002年も2004年も、何年も続いた大干魃のため、農業は壊滅状態、湖は干上がって漁業もできないという状態でしたから、なお一層荒涼感があったようです。

スィースターン地方の中心都市、ザーボルの周辺一帯には砂地が広がっています。二十数年前にここを訪れた先生の話によると、登るのも大変な高さの砂丘がいくつも連なっていたそうです。中央アジアの鳴沙山のようなものかと尋ねたら、そんなものですというお返事でした。
ところが、私が訪れた時にはそうした砂丘は一つも見られませんでした。理由はよく分かりませんが、色々と話を聞いてみたところ、防砂林の影響によるものであるとか、気象変動の影響か強風が吹かなくなってしまい、砂が山を作らなくなってしまったとかいう話でした。
今では、写真のような風紋しか見られなくなってしまったスィースターンの砂漠なのでした。

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日本へ来て一週間。買い物をしたり運転免許書の更新に行ったりしているうちに終わってしまいました。
これから色々な人に会って、これからのことについて相談に乗っていただかなくてはいけません。学位は何とか取得できたものの、これからどうなるのやらと、ちょっと頭が痛いところです。まあ、何とかなるのでしょうけど。
ということで、この写真です。友人が名付けて曰く、「私の明日はどっちだ?」。

この写真は、イランのザグロス山脈の中に位置するチャハールマハール・ヴァ・バフティヤーリー州の州都、シャフレコルドからチェルゲルドという小さな町に向かって走る街道沿いでの一こまです。
この州は、バフティヤーリーと呼ばれる遊牧民が数多く住むところです。
彼らは、春になると南から移動してきて、チェルゲルドを中心とした一帯に天幕を張り、羊や山羊の放牧を行います。彼らは遊牧民の中の遊牧民とも言われ、勇敢で、高潔な精神を持っているとされており、都市に住むイラン人もバフティヤーリー族を「イラン人のオリジンだ」という言い方をします。
彼らは独自の言葉を持ち、文化を持っています。たとえば、バフティヤーリーの音楽や、女性たちが天幕の中で織る絨毯やその他の織物は独自性を持っていて、名高いものです。
ある年、日本からある研究者とそのお弟子さんがいらっしゃいました。バフティヤーリーに会おうと、チェルゲルドに向かい、街道沿いに天幕を張っている遊牧民たちに尋ねますが、なぜかみんなロル族で、バフティヤーリーの天幕が見つかりません。
この写真はその時のもので、「あっちにいるのもあなた達の仲間?」と、友人と私が聞いているのを先生が激写(?)したものです。
万年雪の残るザグロス山脈の中の青々とした夏営地はそれは美しい場所で、私が大好きな場所の一つです。
ということでおまけ。上の写真の場所の近くです。

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これから色々な人に会って、これからのことについて相談に乗っていただかなくてはいけません。学位は何とか取得できたものの、これからどうなるのやらと、ちょっと頭が痛いところです。まあ、何とかなるのでしょうけど。
ということで、この写真です。友人が名付けて曰く、「私の明日はどっちだ?」。

この写真は、イランのザグロス山脈の中に位置するチャハールマハール・ヴァ・バフティヤーリー州の州都、シャフレコルドからチェルゲルドという小さな町に向かって走る街道沿いでの一こまです。
この州は、バフティヤーリーと呼ばれる遊牧民が数多く住むところです。
彼らは、春になると南から移動してきて、チェルゲルドを中心とした一帯に天幕を張り、羊や山羊の放牧を行います。彼らは遊牧民の中の遊牧民とも言われ、勇敢で、高潔な精神を持っているとされており、都市に住むイラン人もバフティヤーリー族を「イラン人のオリジンだ」という言い方をします。
彼らは独自の言葉を持ち、文化を持っています。たとえば、バフティヤーリーの音楽や、女性たちが天幕の中で織る絨毯やその他の織物は独自性を持っていて、名高いものです。
ある年、日本からある研究者とそのお弟子さんがいらっしゃいました。バフティヤーリーに会おうと、チェルゲルドに向かい、街道沿いに天幕を張っている遊牧民たちに尋ねますが、なぜかみんなロル族で、バフティヤーリーの天幕が見つかりません。
この写真はその時のもので、「あっちにいるのもあなた達の仲間?」と、友人と私が聞いているのを先生が激写(?)したものです。
万年雪の残るザグロス山脈の中の青々とした夏営地はそれは美しい場所で、私が大好きな場所の一つです。
ということでおまけ。上の写真の場所の近くです。

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イラン暦ファルヴァルディーン月21日、イスラーム・ヒジュラ暦ラビー・アル=アッワル月1日、西暦4月10日
この日はイスラームの預言者が聖遷(ヒジュラ)を行った日です。
預言者は生まれ故郷であるマッカ(メッカ)で預言者としての使命に目覚め、布教を行っていました。しかし多神教徒の保守的な勢力が多数を占めていた街で、預言者の言葉に耳を傾けたのは、若者や、社会的に低い階層におかれた人々ばかりでした。彼らは預言者の高潔な人柄に惹かれ、また、彼の説く全人類の平等により自分が解放された自由な人間であることを知り、イスラームへ傾倒していきました。
このようにムスリムになった人々は数は多くありませんでしたが、有力者の息子たちなども混じっており、ムスリム勢力が大きくなることを畏れたマッカの有力者たちは、預言者をはじめとするムスリムに弾圧を加えるようになりました。
弾圧を避けるため、一部のムスリムはキリスト教徒が多く住むアフリカ大陸へと逃げましたが、多くのムスリムはマッカに留まり、命の危険にさらされるようにさえなりました。
こうした困難な情況の中、ヤスリブの人々が、自分たちの街で起こっている部族対立の仲介を行ってくれるよう、高潔な人柄で知られていた預言者に申し出てきました。マッカでの布教に限界を感じていた預言者は、ヤスリブの人々の招待に応じ、ヤスリブへと移住しました。これを聖遷=ヒジュラといいます。
これは単純に布教の場所をヤスリブ(後のマディーナ=メディナ)に移したということではなく、それまでの人間関係を全て断ち切り、新たな人間関係を築くということを意味していました。
移住先でムスリムたちは新たに兄弟のちぎりを結び、新たなムスリム社会を作るために一歩を踏み出したのです。
こうしたことから、イスラームではヒジュラを非常に重要視し、ヒジュラが行われた年をイスラーム暦の起源とするようになったのです。これが西暦622年のことでした。
ちなみに、現在のイランで使われている太陽暦も、ヒジュラの年を起源としていますが、完全太陰暦であるため一年が約354日であるイスラーム暦と違い、太陽暦であるイラン暦は一年が360日(四年に一度閏年を設ける)であるため、今年はイスラーム・ヒジュラ暦では1426年であるのに対し、イラン暦は1384年とずれが生じています。
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この日はイスラームの預言者が聖遷(ヒジュラ)を行った日です。
預言者は生まれ故郷であるマッカ(メッカ)で預言者としての使命に目覚め、布教を行っていました。しかし多神教徒の保守的な勢力が多数を占めていた街で、預言者の言葉に耳を傾けたのは、若者や、社会的に低い階層におかれた人々ばかりでした。彼らは預言者の高潔な人柄に惹かれ、また、彼の説く全人類の平等により自分が解放された自由な人間であることを知り、イスラームへ傾倒していきました。
このようにムスリムになった人々は数は多くありませんでしたが、有力者の息子たちなども混じっており、ムスリム勢力が大きくなることを畏れたマッカの有力者たちは、預言者をはじめとするムスリムに弾圧を加えるようになりました。
弾圧を避けるため、一部のムスリムはキリスト教徒が多く住むアフリカ大陸へと逃げましたが、多くのムスリムはマッカに留まり、命の危険にさらされるようにさえなりました。
こうした困難な情況の中、ヤスリブの人々が、自分たちの街で起こっている部族対立の仲介を行ってくれるよう、高潔な人柄で知られていた預言者に申し出てきました。マッカでの布教に限界を感じていた預言者は、ヤスリブの人々の招待に応じ、ヤスリブへと移住しました。これを聖遷=ヒジュラといいます。
これは単純に布教の場所をヤスリブ(後のマディーナ=メディナ)に移したということではなく、それまでの人間関係を全て断ち切り、新たな人間関係を築くということを意味していました。
移住先でムスリムたちは新たに兄弟のちぎりを結び、新たなムスリム社会を作るために一歩を踏み出したのです。
こうしたことから、イスラームではヒジュラを非常に重要視し、ヒジュラが行われた年をイスラーム暦の起源とするようになったのです。これが西暦622年のことでした。
ちなみに、現在のイランで使われている太陽暦も、ヒジュラの年を起源としていますが、完全太陰暦であるため一年が約354日であるイスラーム暦と違い、太陽暦であるイラン暦は一年が360日(四年に一度閏年を設ける)であるため、今年はイスラーム・ヒジュラ暦では1426年であるのに対し、イラン暦は1384年とずれが生じています。
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イラン暦ファルヴァルディーン月20日、イスラーム・ヒジュラ暦サファル月29日、西暦4月9日
この日はイスラーム12イマーム・シーア派第8代目イマーム・リダー(ペルシア語ではレザー)の殉教日です。
イマーム・レザーは、イスラーム・ヒジュラ暦148年ズィー・カアダ月11日(西暦765年12月29日)にアラビア半島のマディーナ(メディナ)で生まれました。
彼はアリーと名付けられましたが、現世において与えられたもの全てに満足をして暮らしていたため、リダー(満足)という称号で呼ばれ、知られるようになりました。
彼は7代目イマームであった父ムーサーの死後、イマームの位を継ぎました。
彼のイスラームに関する広く深い知識はイスラーム世界に広く知られ、また、その性格の穏和さもあって、人々に広く親しまれていました。
イマーム・レザーはメディナで人々にイスラームの知識を教えていましたが、アラビア半島から遠く離れたイランのホラーサーンの地のシーア派の人々は、イマームの持つ知識を直接その地に広めて欲しいと思い、使者を送り、イマームにホラーサーンを訪れて欲しいとの願いを伝えました。
イマーム・レザーはホラーサーンの人々の願いに答えようと思いましたが、その当時、イスラーム世界を支配していたアッバース朝のカリフ・マアムーンは、ホラーサーンの人々がイマーム・レザーを中心に団結し、イマームを押し立てて反乱を企てるのではないかと恐れ、イマームがホラーサーンを訪れることをやめさせようとしました。
しかし、イマーム・レザーはカリフ・マアムーンとの交渉の末、いくつかの条件に従うことでホラーサーンに向かうことを得ました。
ホラーサーンのいくつかの街でイマーム・レザーは大歓迎を受けました。イマームはイスラームに関する知識を人々に教え、人々はイマームの周囲に集まり、その教えを請いました。
こうした情況を知り、カリフは人々の勢力がイマームを中心に反乱勢力となることを恐れ、ヒジュラ暦の203年のこの日、イマームを暗殺しました。(西暦818年9月5日)
イマームの遺体はある小さな村〜現在のマシュハド〜に葬られました。
イマーム・レザーは現在のイランの領内にその墓がある唯一のイマームです。他のイマームたちの墓は、サウジアラビア、イラク領内にあり、イラン人にとって簡単に訪れることができません。そのため、イランやその周辺諸国の人々にとって、マシュハドのイマーム・レザー廟は最も身近なイマーム廟であり、マシュハドへの巡礼が盛んに行われています。
イマーム廟を訪れると、近隣諸国からやって来た巡礼者たちが様々な言葉でイマームに願いを伝えているのを見ることができますし、廟の近くにあるおみやげ物屋などでは国へのおみやげを買う各国の人々の姿を見ることができます。
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この日はイスラーム12イマーム・シーア派第8代目イマーム・リダー(ペルシア語ではレザー)の殉教日です。
イマーム・レザーは、イスラーム・ヒジュラ暦148年ズィー・カアダ月11日(西暦765年12月29日)にアラビア半島のマディーナ(メディナ)で生まれました。
彼はアリーと名付けられましたが、現世において与えられたもの全てに満足をして暮らしていたため、リダー(満足)という称号で呼ばれ、知られるようになりました。
彼は7代目イマームであった父ムーサーの死後、イマームの位を継ぎました。
彼のイスラームに関する広く深い知識はイスラーム世界に広く知られ、また、その性格の穏和さもあって、人々に広く親しまれていました。
イマーム・レザーはメディナで人々にイスラームの知識を教えていましたが、アラビア半島から遠く離れたイランのホラーサーンの地のシーア派の人々は、イマームの持つ知識を直接その地に広めて欲しいと思い、使者を送り、イマームにホラーサーンを訪れて欲しいとの願いを伝えました。
イマーム・レザーはホラーサーンの人々の願いに答えようと思いましたが、その当時、イスラーム世界を支配していたアッバース朝のカリフ・マアムーンは、ホラーサーンの人々がイマーム・レザーを中心に団結し、イマームを押し立てて反乱を企てるのではないかと恐れ、イマームがホラーサーンを訪れることをやめさせようとしました。
しかし、イマーム・レザーはカリフ・マアムーンとの交渉の末、いくつかの条件に従うことでホラーサーンに向かうことを得ました。
ホラーサーンのいくつかの街でイマーム・レザーは大歓迎を受けました。イマームはイスラームに関する知識を人々に教え、人々はイマームの周囲に集まり、その教えを請いました。
こうした情況を知り、カリフは人々の勢力がイマームを中心に反乱勢力となることを恐れ、ヒジュラ暦の203年のこの日、イマームを暗殺しました。(西暦818年9月5日)
イマームの遺体はある小さな村〜現在のマシュハド〜に葬られました。
イマーム・レザーは現在のイランの領内にその墓がある唯一のイマームです。他のイマームたちの墓は、サウジアラビア、イラク領内にあり、イラン人にとって簡単に訪れることができません。そのため、イランやその周辺諸国の人々にとって、マシュハドのイマーム・レザー廟は最も身近なイマーム廟であり、マシュハドへの巡礼が盛んに行われています。
イマーム廟を訪れると、近隣諸国からやって来た巡礼者たちが様々な言葉でイマームに願いを伝えているのを見ることができますし、廟の近くにあるおみやげ物屋などでは国へのおみやげを買う各国の人々の姿を見ることができます。
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ばたばたとあわただしい日が続いていましたが、それもようやく先日終わりました。どうしても日本で終わらせなくてはいけない用があるため、先日、日本に戻ってきました。
帰国前日の夜まで人と会っていたため、帰国直前までばたばたしていましたが、無事に日本にたどり着きました。
いつもはイラン・エアを使っていたのですが、この二三年、いろいろな人からエミレーツがいいよ、という評判を聞いていたので、少し時間がかかることには目をつぶってドバイ経由で戻ってきました。
飛行機に乗り込むやいなや、金髪の女性がにっこりと「welcome」と挨拶してくれるのにまずびっくりして、機内がきれいなことにまたびっくりして、エコノミーなのに全席にテレビ画面があることにびっくりし、機内食に選択の余地があることにびっくりするという、びっくりの連続でした。自分がいかにイラン・エアに毒されて(?)いたかを痛感してしまいました。この次は、エミレーツよりも安いというガルフ・エアを利用してみようと思います。
中継地のドバイでは、乗り継ぎのために10時間近く待ち時間があったため、市内のゴールデン・スークで母に頼まれていながらイラン国内で買う時間がなかった金のブレスレットを買い、少し早めに空港に行き、免税店をぶらぶらするという、これまでの一時帰国では考えられない時間の使い方をしてしまいました。
関空から羽田でも国内線の乗り継ぎが悪く、というか、ちょうどよい時間の便がとれず、5時間待ちでした。そこで、大阪市内に住んでいる大学時代からの友人に連絡を取り、空港まできてもらい、夕食を食べながら時間をつぶすことに。何年も会っていなかったからと、仕事後すぐに空港まで駆けつけてくれた彼女には感謝です。
自宅に戻って一日はひたすら眠り、今日からようやく活動開始です。日本でもあれこれ忙しい予定なのですが、これまで撮りためた写真を整理して、ご紹介できたらと思います。
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帰国前日の夜まで人と会っていたため、帰国直前までばたばたしていましたが、無事に日本にたどり着きました。
いつもはイラン・エアを使っていたのですが、この二三年、いろいろな人からエミレーツがいいよ、という評判を聞いていたので、少し時間がかかることには目をつぶってドバイ経由で戻ってきました。
飛行機に乗り込むやいなや、金髪の女性がにっこりと「welcome」と挨拶してくれるのにまずびっくりして、機内がきれいなことにまたびっくりして、エコノミーなのに全席にテレビ画面があることにびっくりし、機内食に選択の余地があることにびっくりするという、びっくりの連続でした。自分がいかにイラン・エアに毒されて(?)いたかを痛感してしまいました。この次は、エミレーツよりも安いというガルフ・エアを利用してみようと思います。
中継地のドバイでは、乗り継ぎのために10時間近く待ち時間があったため、市内のゴールデン・スークで母に頼まれていながらイラン国内で買う時間がなかった金のブレスレットを買い、少し早めに空港に行き、免税店をぶらぶらするという、これまでの一時帰国では考えられない時間の使い方をしてしまいました。
関空から羽田でも国内線の乗り継ぎが悪く、というか、ちょうどよい時間の便がとれず、5時間待ちでした。そこで、大阪市内に住んでいる大学時代からの友人に連絡を取り、空港まできてもらい、夕食を食べながら時間をつぶすことに。何年も会っていなかったからと、仕事後すぐに空港まで駆けつけてくれた彼女には感謝です。
自宅に戻って一日はひたすら眠り、今日からようやく活動開始です。日本でもあれこれ忙しい予定なのですが、これまで撮りためた写真を整理して、ご紹介できたらと思います。
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イラン暦ファルヴァルディーン月19日、イスラーム・ヒジュラ暦サファル月28日、西暦4月8日
この日はイスラームの預言者ムハンマドが死去した日であり、シーア派第二代目イマーム・ハサン・ムジュタバーが殉教した日でもあります。
預言者ムハンマドは、マッカ(日本ではメッカ)で生まれ、イスラームの布教活動を行っていましたが、多神教徒である住民たちに迫害を受け、ムスリムたちが生命の危険にさらされるようになるに当たって、以前から招待を受けていた、ヤスリブ(後のマディーナ、日本ではメディナとして知られる)へと逃れました。これは西暦622年のことであり、イスラームはこの年を暦の起点としています。それは、この年がイスラームにとって大きな転機となった年だからです。
ムハンマドはマディーナで徐々に信徒を増やし、兵力に勝るマッカの軍隊とも対等に渡り合い、ついには和議を結ぶに至りました。そして、ヒジュラ暦11年に預言者は、最初で最後の巡礼を行いました。現在、全世界のムスリムが巡礼の際に行う儀礼は、この時の預言者の巡礼のやり方に準じているものです。
預言者は、マッカからマディーナへと戻る道中で、付き従っていた信徒たちに最後の説教を行い、マディーナに戻ってまもなく病を発し、晩年の愛妻アーイシャの膝で亡くなりました。(西暦632年5月25日)
預言者はアーイシャの家の中に葬られたとされていますが、今ではその場所ははっきりと分かっていません。現在、預言者の墓と伝えられている場所があり、巡礼にやってきた信徒たちが訪れていますが、本当に預言者のものかどうかは分かっていません。
ヒジュラ暦49年、預言者が亡くなった日とまさに同じサファル月の28日、(西暦669年4月7日)、預言者の孫に当たる、ハサン・ムジュタバーが殉教したと言われています。
ハサンは、預言者の末娘ファーティマと預言者の従兄弟アリーの間に、ヒジュラ暦3年あるいは4年に生まれた長男です。初孫であるハサンを預言者は特にかわいがったと伝えられています。
第四代目ハリーファ(シーア派にとっては初代イマーム)である父アリーの死後、ハサンはアリーを預言者の正当な後継者と信ずるイラクの民の指示を得て、ハリーファ(カリフ)を名乗りました。しかし、その勢力は、アリーの政敵であり、その当時イスラーム世界の政治的・軍事的実権を掌握していたムアーウィヤには及ばず、最終的に、ハサンはムアーウィヤから年金を受け取ることでハリーファの位を彼に譲ることにしました。
シーア派にとっては、ハサンはアリーの後継者であり、無謬の人ですが、歴史的には、享楽的で、政治にはあまり興味のない優柔不断な人物であり、弟のフサインとは折り合いが悪かったと伝えられています。また、彼は妻を得ては離婚するということを繰り返したため、「離婚者」という異名を持っていたとも言われています。
彼は45歳頃に病死したと言われていますが、シーア派の伝承では、ムアーウィヤが毒殺したということになっています。
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この日はイスラームの預言者ムハンマドが死去した日であり、シーア派第二代目イマーム・ハサン・ムジュタバーが殉教した日でもあります。
預言者ムハンマドは、マッカ(日本ではメッカ)で生まれ、イスラームの布教活動を行っていましたが、多神教徒である住民たちに迫害を受け、ムスリムたちが生命の危険にさらされるようになるに当たって、以前から招待を受けていた、ヤスリブ(後のマディーナ、日本ではメディナとして知られる)へと逃れました。これは西暦622年のことであり、イスラームはこの年を暦の起点としています。それは、この年がイスラームにとって大きな転機となった年だからです。
ムハンマドはマディーナで徐々に信徒を増やし、兵力に勝るマッカの軍隊とも対等に渡り合い、ついには和議を結ぶに至りました。そして、ヒジュラ暦11年に預言者は、最初で最後の巡礼を行いました。現在、全世界のムスリムが巡礼の際に行う儀礼は、この時の預言者の巡礼のやり方に準じているものです。
預言者は、マッカからマディーナへと戻る道中で、付き従っていた信徒たちに最後の説教を行い、マディーナに戻ってまもなく病を発し、晩年の愛妻アーイシャの膝で亡くなりました。(西暦632年5月25日)
預言者はアーイシャの家の中に葬られたとされていますが、今ではその場所ははっきりと分かっていません。現在、預言者の墓と伝えられている場所があり、巡礼にやってきた信徒たちが訪れていますが、本当に預言者のものかどうかは分かっていません。
ヒジュラ暦49年、預言者が亡くなった日とまさに同じサファル月の28日、(西暦669年4月7日)、預言者の孫に当たる、ハサン・ムジュタバーが殉教したと言われています。
ハサンは、預言者の末娘ファーティマと預言者の従兄弟アリーの間に、ヒジュラ暦3年あるいは4年に生まれた長男です。初孫であるハサンを預言者は特にかわいがったと伝えられています。
第四代目ハリーファ(シーア派にとっては初代イマーム)である父アリーの死後、ハサンはアリーを預言者の正当な後継者と信ずるイラクの民の指示を得て、ハリーファ(カリフ)を名乗りました。しかし、その勢力は、アリーの政敵であり、その当時イスラーム世界の政治的・軍事的実権を掌握していたムアーウィヤには及ばず、最終的に、ハサンはムアーウィヤから年金を受け取ることでハリーファの位を彼に譲ることにしました。
シーア派にとっては、ハサンはアリーの後継者であり、無謬の人ですが、歴史的には、享楽的で、政治にはあまり興味のない優柔不断な人物であり、弟のフサインとは折り合いが悪かったと伝えられています。また、彼は妻を得ては離婚するということを繰り返したため、「離婚者」という異名を持っていたとも言われています。
彼は45歳頃に病死したと言われていますが、シーア派の伝承では、ムアーウィヤが毒殺したということになっています。
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忙しかった年末年始ではありましたが、時間を見つけて、絨毯を洗いました。ガーリーシューイーと呼ばれる絨毯の洗濯屋に出す人も多いのですが、私の部屋の絨毯は機械織りの安いものですし、いつも自分で洗ってしまいます。
一年分のほこりや汚れを洗い落とし、すっきりとすべく、早朝から活動開始です。

まずは絨毯を、部屋から駐車場へと引っ張り出す。機械織りで厚ぼったい絨毯のため、まずこの作業だけでも重労働。
駐車場に広げた絨毯にホースで水をかけて濡らす。

濡らした絨毯に洗剤を振りかける。
絨毯専用洗剤もあるのだが、普通の洗濯物に使う洗剤を使っている人も多いため、年に一回しか使わない洗剤を買う手間を省いて、私も普段使っている洗剤を使用。

普段は床洗いに使っているデッキブラシで洗濯開始。
絨毯の毛羽や髪の毛などがすぐにブラシ一杯に絡まってしまう。泡もかなり汚れていて、絨毯が一年で随分と汚れてしまっていたことを実感。

十分に洗ったらすすぎ開始。
泡が完全になくなるまで水をかけてはブラシで泡を洗い流すという作業の繰り返し。この頃には腰が痛いし飽きるしで、いい加減に済ませてしまいたい気持ちとの戦い。

十分にすすいだ後は、少しそのまま置いて水を切る。
絨毯を巻きながらもう一度水切り。絨毯が水を含んで重く、なかなか上手く巻けない。

最後に塀に立てかけて水切り。
絨毯が目一杯水を含んでいて、この時点では持ち上げることはできない。二人がかりで塀に立てかけるのが精一杯。
年末になると、このように絨毯を洗う家庭も多く、ベランダなどから色とりどりの絨毯を干す風景が見られます。でも去年は曇りや雨の日が多くて皆さん絨毯洗いには苦労したようです。おもしろいのは、たとえ夜に降った雨で濡れても洗い直すことなくそのまま干し続ける家庭も多いことです。もう一度洗い直すというのはとんでもなく面倒な作業ですから当然と言えば当然かもしれません。
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一年分のほこりや汚れを洗い落とし、すっきりとすべく、早朝から活動開始です。

まずは絨毯を、部屋から駐車場へと引っ張り出す。機械織りで厚ぼったい絨毯のため、まずこの作業だけでも重労働。
駐車場に広げた絨毯にホースで水をかけて濡らす。

濡らした絨毯に洗剤を振りかける。
絨毯専用洗剤もあるのだが、普通の洗濯物に使う洗剤を使っている人も多いため、年に一回しか使わない洗剤を買う手間を省いて、私も普段使っている洗剤を使用。

普段は床洗いに使っているデッキブラシで洗濯開始。
絨毯の毛羽や髪の毛などがすぐにブラシ一杯に絡まってしまう。泡もかなり汚れていて、絨毯が一年で随分と汚れてしまっていたことを実感。

十分に洗ったらすすぎ開始。
泡が完全になくなるまで水をかけてはブラシで泡を洗い流すという作業の繰り返し。この頃には腰が痛いし飽きるしで、いい加減に済ませてしまいたい気持ちとの戦い。

十分にすすいだ後は、少しそのまま置いて水を切る。
絨毯を巻きながらもう一度水切り。絨毯が水を含んで重く、なかなか上手く巻けない。

最後に塀に立てかけて水切り。
絨毯が目一杯水を含んでいて、この時点では持ち上げることはできない。二人がかりで塀に立てかけるのが精一杯。
年末になると、このように絨毯を洗う家庭も多く、ベランダなどから色とりどりの絨毯を干す風景が見られます。でも去年は曇りや雨の日が多くて皆さん絨毯洗いには苦労したようです。おもしろいのは、たとえ夜に降った雨で濡れても洗い直すことなくそのまま干し続ける家庭も多いことです。もう一度洗い直すというのはとんでもなく面倒な作業ですから当然と言えば当然かもしれません。
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