学生たちがそれぞれの学科の掲示板の前で新学期の時間割をメモしたり、登録のために事務室を訪れたりしてにぎやかでした。
大学内で先生を捜してうろうろしている時に、いくつかの張り紙に気がつきました。
一つは、学科事務室の扉に貼ってあったもので、「試験の結果についての質問や抗議は一切受け付けません。先生が採点し、教務課に提出したものであり、事務室は一切関係ありません」というような内容でした。いかに学生が試験の点数のことで抗議に来るかということが分かる張り紙でした。
私が教授たちの会議が終わるのを待っている間にも、試験の点数に関して疑問のある、あるいは抗議のある学生が何人も会議室の前でうろうろしては、用足しのために出てくる先生方を捕まえては抗議を行っていました。
もう一つは、教室の扉に貼ってある手書きの張り紙で、試験に際しての注意書きでした。
それによると、携帯電話使用者は全ての試験の点数をなしにするとのこと。誰か携帯電話を使ってカンニングをしたので、急遽こうした張り紙をしたのでしょうか。
しかし考えてみたら、こちらの女性はみんなコートを着てスカーフをかぶっています。その上からさらにチャードルを着ている人も多いです。マナーモードにして、ハンズフリーのイヤホンをスカーフの下に隠してしまえば、携帯電話によるカンニングはしたい放題なのだろうと思います。
そして、そうしたカンニングに気付いたとしても、男性教授や職員は女子学生に対して身体検査をすることはできません。学生がしらを切り通せばそれでおしまいです。女性職員を呼んでくる間に証拠隠滅はできてしまうでしょう。
万引き商品をチャードルの下に隠して店を出て行くおばさんを見て以来、女性のベールの下には何が隠されているか分からないとついつい思ってしまうのでした。
文学部では、試験の結果が一覧になって掲示板に張り出されます。自分の成績が誰の目にも明らかなわけで、これはちょっと嫌だなあと思いますし、できるだけ良い点数を取りたいと思う学生たちの気持ちも分からないでもありません。
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今日はイスラーム革命旬間のはじまりです。
1979年のこの日、フランスに追放されていたホメイニー師がエール・フランス特別機により帰国、テヘランのメヘラバード空港に降り立ちました。
パフラヴィー朝のシャー(国王)を中心とする人々がイランの富を独占していると感じていた人々による革命活動は、革命理論の精神的支柱であったホメイニー師の帰国により最高潮に達しました。
既に1月16日にシャーは、大学生を中心とする民衆デモを収拾できず、アメリカの支援により中東一と言われていた国軍も中立を宣言、権力基盤を失い、休暇という名目でイランから亡命していました。
革命前のイランは、石油価格の高騰とアメリカの支援により、日本のバブル期のように好景気に沸いていました。しかしその一方で、工場や農地はシャーを中心とする一部の人々の手に握られている状態でした。インフレは進み、農村は搾取により荒廃し、職を求めて農村から都市に流入する人々で都市の治安は不安定になりました。秘密警察による反政府活動の取り締まりも厳しいものでした。
こうした国王の独裁に対して異議を唱えたグループの一つが、ホメイニー師を中心とするゴムの宗教者たちでした。
宗教と政治の分離を唱えたシャーは、人々に対して影響力を持つ宗教者たちの力をそぐために様々な形で弾圧を加えていました。ホメイニー師はこうしたシャーの国内政治や、シャーのアメリカやイスラエル寄りの外交路線に対して批判を展開しました。
革命は、決してイスラーム政権を打ち立てるためのものではありませんでした。革命初期には共産主義勢力、宗教勢力、反米勢力などいくつかのグループが、独裁政権打倒を目指したものであり、人々の様々な思惑を一つにして急速にイラン全土に広まりました。
こうした反シャー運動を展開する各グループの中でも、ホメイニー師の掲げる「社会における正義の確立」「被抑圧者の救済」という思想は人々に大きな影響を与えました。
ホメイニー師の影響力を恐れたシャーは、まずホメイニー師を逮捕、トルコに追放しました。ホメイニー師はその後イラクのナジャフに住み、そこからイラン国内の宗教勢力に指示を与えました。後にナジャフからフランスに追放されましたが、フランスからも電話などを通して人々の反国王運動、革命運動を指導しました。
イラン・イスラーム政権にとって革命運動の成功の象徴がこのホメイニー師の帰還なのです。
イランではこの日から革命記念日までの10日間、革命記念行事一色になるのです。
私もホメイニー師のイラン帰還をテレビのニュースで見た記憶があります。「革命」とは歴史の本の中でのみ起こる事柄だと考えていた小学校低学年の私にとって、目の前で(テレビのブラウン管ですが)起こっている「革命」に驚いたものでした。
私ははっきりと覚えていないのですが、私がお世話になっている日本の先生によると、「エール・フランスのタラップをぺたぺたと下りてくるホメイニー師が、サンダル履きだったことが非常に印象的だった」とのこと。思わず笑ってしまうエピソードでした。
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今日はガディール・ホンムの日です。
これまでにも何回かお話ししているように、シーア派は、預言者ムハンマドの甥で娘婿であるアリーとその子孫こそが預言者の後継者であると信じることが基本となっています。
シーア派の人々は、ヒジュラ暦10年に預言者が生涯最後のハッジを行い、マディーナへ帰る時に、ガディール・ホンムというところで、娘婿アリーを後継者に指名したと信じており、この日を記念して祝います。
実際には、預言者の死後、イスラーム教団(ウンマ)の指導者としての役割は、ウンマの中の有力者が選挙によって選ばれました。これは預言者のスンナ(慣習)に従ったもので、ハリーファ(カリフ)=代理人と呼ばれました。こうしたハリーファの選び方が正しいと信じる人たちがスンナ派(スンニー派とも)です。
アリーも四代目のハリーファですが、ウマイヤ家という有力者と対立し、暗殺されてしまいます。そしてウマイヤ家は、選挙によらず、実力でハリーファの位を奪ったのです。この後、ハリーファは世襲となり、選挙で選ばれることはなくなりました。
シーア派にとって、アリーまでの四人のハリーファには敬意を払いますが、ウマイヤ朝以後のハリーファについては簒奪者であるとして認めません。
シーア派の人々の間では、ガディール・ホンムで預言者自ら後継者としてアリーが指名されたのに、年齢が若かったために指導者として認められなかったのだと信じられています。
シーア派の人々にとって、今日は、自分たちの最初の指導者が、預言者という権威によって後継者に指名された大切な日なのです。
イランでは二日も前から、ラジオでもテレビでも「ガディール・ホンムおめでとう」という番組ばかりです。そして、このめでたい日に合わせて、大学生の集団結婚式も行われます。これについてはまた後日お話しします。
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イラク難民の多いイランでも国内の何カ所かに投票所が設けられています。
イラン国内のニュースを見ていると、この数日、この選挙とカルザイ大統領訪イランにガディール・ホンムのことばかりです。
イラン国内のイラク人がどれほど選挙に行くのか、投票が終わってみないと分かりません。イラン国内のイラク人の多くが、あまりに不安定なイラク情勢に、未だ帰国の決意ができない状態です。彼らが選挙によって国内が安定すると考えているのか、かえって混乱を引き起こすと考えているのか、残念ながらほとんど伝わってきません。
イラク国民の過半数を占めるシーア派がこの選挙によって政権を担うであろうこと、そして同じシーア派であることからイラクに対する影響力が行使できるであろうことを期待しているイラン政府は、今回の選挙が正当なものであり、いかに素晴らしいものであるかを宣伝しています。しかし、この選挙に対してイラン国民の多くは無関心であるように思います。第一、同じ12イマーム・シーア派であるとはいっても、これまでの歴史的経緯から、彼らはイラク人であり、自分たちはイラン人であると考えているのですから、イラクの政権がシーア派になろうとスンニー派になろうと、あまり自分たちには関係ないと考える人の方が多いようです。
イラン政府が警戒していることの一つは、クルド人が政権内で大きな立場を占めることであるように思います。クルド人の自治権が大きくなり、それによってイラン国内のクルド人の動きが不穏化することを警戒しているのです。
現在は、イラン国内のクルド人もそれほど独立に対する活発な活動を行っていませんが、イラク国内の動きによってはどうなるか分かりません。このため、シーア派に絶対多数派になってもらいたいのでしょう。
東西の国境を接している二国が未だに不安定であることがイランに対してどのような影響を及ぼすのか、安定したならどうなるのか、私にはよく分かりません。
第一隣国の心配をする前に、イラン自身、春に行われる大統領選挙がどうなるのか、未だに立候補予定者も明らかでない状態です。
テレビやラジオのニュース、新聞などでは盛んに両国のことを報道していますが、多くのイラン人はイラクのこともアフガニスタンのことも、そしてイランの政治に関してすら興味を失っているようです。以前は政治に対して活発な意見を述べていた大学生ですら、政治には失望し、関心を失っています。しかしここがイラン人らしいと思うのですが、色々と悲観的なことを口に出して文句を言う割に、妙に将来に対して楽観的であるようにも見えます。
「なんとかなるさ」
歴史的に困難な状況を何度も乗り越えて、なおかつイラン人であり続けた人たちですから、確かに何とかなるのかもしれません。
核問題に関連したアメリカの攻撃的な態度も、イラクやアフガニスタンの混乱も、自分たちとは関係ない遠い世界のこと。自分たちは何とかなるさ。そんな雰囲気を感じる今日この頃です。
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大学から家へ帰ろうと、乗り合いタクシーの乗り場へ行ったのですが、なぜか私の住む地区行きのタクシーが全くやってきません。
タクシーの乗客をさばく差配人が、何とかしなくてはと思ったのでしょう。ちょうど通りかかった空のタクシーに何事か交渉し、すったもんだの挙げ句、そのタクシーが行ってくれることになりました。
ちょうど昼食時で道路は大渋滞。
タクシーに乗るまでにさんざん待たされていた他の乗客はかなりいらいらしています。そしてタクシーはそのままガソリンスタンドへ向かいます。
一人の乗客の男性は激怒です。
「私はカーレ・ゼンデギー(重大な仕事くらいの意味)があるんだ。もしガソリンスタンドに寄るのなら、我々が乗る時にそれを言うべきだ!そしたらこの車には乗らないで他の車に乗ったのに!」
しかし、こんなことはイランでは当たり前です。
観光地の観光用タクシーでさえ、お客を乗せてからガソリンスタンドへ給油に行くのは当たり前のことです。日本のようにお客を待たせてはいけないという考え方はほとんど見られませんし、お客の方でもそのくらいのことに目くじらを立てたりしません。
ぶつぶつと文句を言い続けるお客に運転手も言い返しています。
「こっちだって、本当はお客なんか乗せるつもりはなかったんですよ。ガソリンを入れなきゃいけないからって最初っから断っているのに、差配に頼まれたから客を乗せたんだから」
彼がぷりぷりと怒りながら降りた後、残ったお客が呆れたように言いました。
「イランで5分や10分遅れたからって、あんなに怒らなきゃいけない仕事ってあるのかねえ」
「彼は長生きできないね」
「大体、他の車なんてなかっただろうに」
全くその通りです。たとえ遅刻をしても、「いや〜渋滞がひどくって」で済んでしまうのですから。ただ、5分10分にかりかりする必要はないかもしれないけど、約束はちゃんと守って欲しいと、大学に行ったものの先生に約束をすっぽかされた私は思ったのでした。
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指導教官一人に副指導教官二人なのですが、何と恐ろしいことに、指導教官と副指導教官の一人に、「代筆疑惑」をかけられてしまったのです。
ある日、大学内をうろうろしていた私に、論文のネイティブチェックを頼んでいた知り合いが深刻な顔をして近づいてきました。
「さっき、先生が、彼女の論文は君が書いたのかねって聞いてきたんだよ」
「は?」
「だから、君の代わりに僕が論文を書いたんじゃないかって疑っているんだ」
「はあ!?」
「もちろん、自分は彼女のペルシア語を直しただけで、内容には一切タッチしていないって言っておいたけど」
「そりゃ当然でしょ。でも、本当に疑っているならこれまでチェックしてもらった原稿を先生に見せてもいいよ」
「もし本当に信じてもらえなかったらそれしかないよ」
「うん。第一、本当に書いてもらったなら三年も前に終わっているって」
その直後に先生に会ったもののなんだか不機嫌だったため、言い訳がましいことを言っても仕方がないと事務的な話だけをして帰ってきたのですが、これがどういうことなのかを理解するのに随分と悩んでしまいました。
で、大雪を押して訪ねた副指導教官の研究所でも言われてしまいました。
「これは誰かが手伝ったの?」
「はあ、ペルシア語のチェックは頼みましたけど」
「そう。資料は全部自分で読んだんだよね?」
「はい。もし誰か別な人が読んだならもうとっくに終わっていますよ」
「確かに」
もしかしてここでも代筆疑惑が?と思い当たったのは研究所を出てからでした。
いろいろと誤解があってのことだったらしいのですが、これまで何も言われなかったのがどうして?ネイティブチェックをしてくれている彼には非常に不評な論文なのに、どうして?と、ちょっと悩んでしまったのでした。
種を明かせば何ということはない、私が謝辞の中で、ネイティブチェックの彼に対する謝礼を書き忘れていたために、先生方が誤解したらしいのですが、それにしてもあんまりなと言いたい話です。
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今日は12イマーム派第10代目イマーム・アリー・ナキーの誕生日です。
彼はイランでは、イマーム・ハーディーとも呼ばれています。
イマームに関しては書くことがだんだんとなくなってきたのですが、預言者とその娘ファーティマ、そして12人のイマーム(これをイランでは14人の清らかな人(Chahardah ma’sume)と言います)についての子供向けの読み物を見つけたので、その中からイマーム・ハーディーについて書かれたものをご紹介しましょう。彼がイマームの位につくまでの部分です。
パネリストの一人が強調していたのが、太陽光利用でした。
「イランは一年のうち300日は晴れているのです。その300日を有効に利用すべきです。各家庭が屋上などにパネルを取り付け、お湯を沸かしたり、発電をすれば、それだけでも大気汚染が何パーセントか軽減できるのです。最初の設置にお金がかかるかもしれませんが、それでもこれは検討すべきです」
というのがその要旨でした。
これを聞いて、以前留学生の間でこれと同じようなことが話題になったことを思い出しました。
イランの国土うち、全く利用できない土地がかなりの割合を占めます。この荒れ地に太陽電池パネルを敷き詰めたら、雨がほとんど降らないのだし、土地の有効利用になるのではないか、と笑い合っていたのでした。
風力発電に関しては実験が行われているようですが、太陽光や地熱に関しては取り組みがあるのかどうか聞いたことがありません。
もっとも、各家庭に太陽光利用を勧めても、ガスや電気代が安いこの国で、設備費をかけてまで設置が進むかどうかかなり疑問があるのも事実です。
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ものすごい風鳴りに外を見てみると、吹雪です。
そのまま寝そびれてしまったので、ラジオをつけて、メールのチェックなどをしていたところ、ニュースで、テヘラン州北部全体で大雪と凍結のため、小学校の午前の部が休校になったとの決定が発表されていました。
イランでは、革命後すぐに戦争が起こり、産めよ増やせよで、多産に対する補助を出したりして子沢山を奨励してきました。
このため、10年くらい前までは子供の数に小学校の建設が追いつかず、午前と午後の二部制という学校が多く見られました。
今の小学生世代は、数が大分減っているのですが、それでもまだ教室の数が足りないため、村や都市郊外では、まだ二部制、あるいは午前が男の子で午後が女の子という変則二部制の小学校が残っています。(イランでは農村部などを除き、小学校から男女別学です)
この午前の部のクラスが今日は休校になったということで、午後のクラスの子供たちはがっかりしているかもしれません。
雪は日の出前には降り止んでいるので、このままなら午後には問題なく通学できるでしょう。
何日か前には、ザグロス山中に位置するチャハール・マハール・ヴァ・バフティヤーリー州の村で、スクールバスが事故を起こし、乗っていた子供たち10人以上が亡くなったそうです。雪道は本当に怖いです。運転をする人にはぜひ、安全運転を心がけて欲しいと、ハンドルを握ると人が変わる人の多いイランの人にお願いしたいと思うのです。
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学校から帰って、お昼を食べて、近所の友だちと雪合戦や、雪だるま作りです。
このはしゃぎ回る子供たちを見て思い出したことがあります。
イランには湾岸諸国からアラブ人観光客が多くやってきます。お金持ちのアラブ人はヨーロッパへ行くけど、あまりお金を持っていない人はイランへ来るんだ、というのですが真偽のほどは分かりません。
しかし、エスファハーンの絨毯の一番のお客はアラブ人だというのですから、やはりお金を持っているのではないでしょうか。エスファハーンの絨毯商人から、日本人は見るばかりで買わないと嫌みを言われたことがあります。
そういえば、ペルセポリスなどで有名なシーラーズには、泊まり客がアラブ人ばかりという安宿も多くあります。もちろん中級から高級ホテルまで、アラブ人の姿を見ないホテルはないという時期もあります。
アラビア半島に比べれば涼しいイランは、あまりお金持ちではないアラブ人にとって一番手近な避暑地なのだとか。私にとって夏のシーラーズはかなり暑くて、とてもではないですがこれよりも暑い場所というのは想像したくありません。
冬のイランを観光中のアラブ人が雪を見ると大はしゃぎです。
雪が降る中ビデオを回しながら踊ったり、歌ったりという光景に出くわしてびっくりしたことが何度かあります。昨年はケルマーンで彼らの記念写真のシャッターを頼まれてしまいました。
雪を見て驚く人は沢山いますけど、ここまで素直に驚きや喜びを表現できるというのはなんだかいいなあと思ったのでした。
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昨日とはうってかわって青空が広がり、雪をかぶったアルボルズの山々もくっきりと見えています。
まずは大学へ行き、そこから両替屋へ、そして郵便局というのが今日のコースでした。
郵便局であちこちたらい回しにされていて改めて感じたのですが、イランの郵便局や役所というのは、本当に働いているのかどうか分からない人が沢山いすぎるように思います。
今日も、例えば、精算のカウンターで、順番待ちの人が何人も並んでいるのに、キャッシャーの係の人の隣で若い男の人が、ずっと携帯をいじり回しているのです。この人は一体職員なのか関係のない人なのか、もし関係のない人がなぜカウンターの中に座っているのか、職員ならなぜ仕事をしないのか、まったくもってよく分かりません。
役所へ行って色々な手続きをしていてもそうです。この人はいったい何のためにいるんだろう、という人が沢山います。例えば、同じ部屋の中で一人が仕事をしているのに、もう一人はのんびりと新聞を読んでいたりお茶を飲んでいたりするのです。
イランというのは、ごく少数の本当に能力のある人だけが仕事をして、それで運営されている国なのかもと思うこともしばしばです。
朝はきれいに見えていたアルボルズの山々も、昼にはすっかり霞の向こうに見えなくなってしまいました。テヘランの空気が本当にきれいなのは、雨や雪の後の数時間だけなのだとちょっと悲しくなってしまったのでした。
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私がイランにやって来た1996年は、日本からイランへと帰国する、あるいは強制送還されるイラン人がまだ多くいました。彼らの中には、もう一度日本へ行きたいという希望を持つ人も多くいたに違いありません。そうした人たちにとって最も手っ取り早い(と考えられていた)日本行きの道は、日本人女性と結婚することでした。
テヘランへ向かうイランエアの中で、これから始まるイラン生活に少々不安を抱いていた私は、そんな感傷に浸る間もないくらいイラン人男性からのアプローチを受けることになりました。成田からテヘランまで10数時間、寝るまもなく、ひっきりなしにイラン人男性に話しかけられるのですから大変です。
このころのイランエアはがらがらで、席を移動したい放題だったので、一人がいなくなるとまた別な人が来るという状態だったのです。
ホテルまで送るだの自分の家に泊まれだの言う人々を振り切ってホテルにたどり着いた時は、心底ほっとしたものでした。
そして、アパートを見つけ、生活を始めてすぐにまた、思いもよらない面倒が次から次へと起こったのです。
外出して会う人ごとに日本行きのビザをねだられるというのは序の口で、歩道を歩く私を自動車でずっとつけ回す人、「日本人?一人?」と日本語で話しかけながらずっと離れない人などが現れ、その人たちをまかない限りアパートに帰れないのです。まだペルシア語が不自由でしたので、周囲の人に上手く助けも求められず、外出するのが怖くてたまりませんでした。
そうこうするうちに、私が住むアパートの前で私を待ちかまえる人まで現れました。そして学校へ行くため、買い物のために出てきた私を捕まえて言うのです。
「ビザが欲しいんだけど、何とかならないか」
「偽装結婚をして欲しい」
電話が共同だったため、不審な電話は同じアパートにいたトルコ人留学生がそこでカットしてくれていたのが救いでした。でも、毎日、「どうしてこんなにビザビザって、つきまとわれなくちゃいけないんだろう」と、本気で日本へ帰ることも考えていた時期もありました。
管理人のいるアパートへと引っ越してこうした人たちを撃退してもらえるようになって、本当にほっとしたものでした。
この頃に留学していた女子学生は皆こういう体験をしていたようです。
私の友人は、知り合ったばかりのイラン人女性に電話番号を渡したら、その兄弟という男性から電話でいきなりプロポーズをされたそうです。また、別な人は、ビザの延長のために行ったビザオフィスで知り合った男性に、「第二夫人」として偽装結婚をして欲しいと申し込まれたそうです。
もちろんこういう男性ばかりでなく、純粋に日本が懐かしくて、日本人に話しかけてくる人の方が多かったのでしょうけど、怖かった方の記憶が強烈で、どうしても、日本語を話す見知らぬイラン人男性には、ついつい身構えてしまうのです。
今ならそれなりの応対はできますから怖いということもないですし、日本の経済状態などの情報もテヘランでは大体行き渡っているらしく、「日本行きのビザをちょうだい」と申し出をしてくる人自体がほとんどいなくなりました。
今は、日本に行きたいあまり必死だったんだろうなあとか、テレビや映画などを通して持っていた日本人女性に対する良いイメージがあったんだろうなあとか、日本人と結婚して書類を一枚提出すれば日本国籍がもらえるという誤った情報が流れていたから何が何でも日本人と結婚したかったんだろうなあとか思うのですが、やっぱり、ストーカーまがいの行為は逆効果だぞ、とアドバイスをしたいところです。
日本人だからというだけで見も知らない相手に(それも異性に)、にこにこと話しかけることのできる人なつっこさにまず驚き。
言ってみなければ結果は分からないんだから言わなきゃ、という超前向きな姿勢でビザ獲得への協力を求める人たちに、また驚き、呆れ。
結婚して子供を作ることが人間として当然のことであり、そこに日本へ行けるというオプションがつくならなおいいからということで、日本人にアタックしてくる人に、「結婚は契約である」という頭で知っていた知識を、実際に生きたものとして感じた三ヶ月でした。
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雨雪が降るということが全く想定されていない都市ですので、今日は朝から大混乱でした。学校は休校にならなかったため、子供たちはちょっとがっかりだったようです。
今は、私のアパート付近では降り止んでうっすらと日も差しています。
ニュースによると、全国的に激しく雨雪が降っているそうで、各地で街道が交通止めになっています。
朝からラジオの交通情報では、テヘラン市内の渋滞情報を流していましたが、渋滞していないところがないくらいにひどいことになっていたようです。
イランの国産車ペイカンはパワー不足で、雪が積もった坂道を上れず、また古くて溝がほとんどないようなタイヤをはいている車も多いため、平らなところでも進めなくなってしまいます。バスも古いバスですと走れなくなってしまい、途中で乗客を降ろしているものも多かったようです。
チェーンを持っていない人も多いですし、持っていても巻き方を知らない人も多いようで、思わず手伝ってあげようかと思うくらいでした。
私はその大雪の中、先生と約束があったため、タクシーで先生のいる研究所まで出かけてきたのですが、普段30分で到着するところが1時間以上かかってしまいました。先生には、「この大雪の中どうやって来たの?てっきり来ないかと思っていた」と感心され、呆れられてしまいました。
午後には、木製のシャベルをかついだバルフィー(雪かき人)が住宅街の小路を回ってくることでしょう。
小路の雪はなかなか溶けてくれないので、彼らに少しお金を払って、アパートの前の道路の雪かきをしてもらうのです。
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日本人に限らず世界各国の人々にとって、「ペルシア」というと絨毯や美しいモスクなどに代表されるロマンチックな印象を受け、「イラン」というと「悪の枢軸」であり、「女性たちが全員黒いチャードルをかぶった後進的な国」というイメージを抱くようです。同じ国なのに呼び名によってこれほどイメージが変わる国というのも珍しいのではないでしょうか。
他国の人々にとって美しく感じられるこの「ペルシア」という言葉の起源ですが、遠く、紀元前6−4世紀にイランを統治した、世界史の教科書風に言うと「アケメネス朝ペルシア」に遡ります。
この王朝はイラン人による最初の王朝と言うことができます。
この王朝の発祥の地がイラン南西部、現在のファールス地方であり、その当時「パールサ」と呼ばれていたところでした。この地方のことを古代ギリシア人は「ペルシア」と呼び、その地方出身のアケメネス朝の人々のことを「ペルシア人」と呼びました。
アケメネス朝のことをイラン人自身は、「ハハーマネシー(Hakhamaneshi)」と言いますが、これも古代ギリシア語でHの発音が落とされてしまったことから「アケメネス(アカイメネスがより正確)」という音でヨーロッパに伝わってしまったのです。
アケメネス朝の最大版図は、西はエジプト、小アジアにまで達し、この小アジアで、ギリシア各都市と衝突を繰り返していました。
「歴史」の作者ヘロドトスをはじめとするギリシアの著作家たちが、自分たちの敵である「ペルシア」について様々に書き残しています。こうしたギリシアの著作を通してイランについての知識を得たため、ヨーロッパの人々は、イランのことを「ペルシア」、イランに住む人たちのことを「ペルシア人」、イランで話されている言葉を「ペルシア語」と言うようになったのです。
イラン人自身は、碑文によるとアケメネス朝時代は自分のことを「Airya」と呼んでいたようです。もう少し時代が下って西暦4−6世紀頃になると「Eran」と自分たちのことを呼んでいます。現在の「イラン(より正確にはイーラーン)」という自称はこうした古い言葉に基づいているのです。
ペルシアというのはギリシア人(あるいは後世のヨーロッパの人々)による呼び方であり、また本来は、パールサという一地方を指す言葉でしかないのです。
最初にお話ししたように、「ペルシア」と「イラン」ではあまりにイメージが違うため、旅行社などがパックツアーを募集する際に、「ペルシアの旅」と書くのと「イランの旅」と書くのでは集客力が断然違うのだそうです。そしてその結果、イランのホテルまでが最近ではその名前を変更し始めています。
例えば、エステグラール(独立)・ホテルはペルシアン・ホテルに、エンゲラーブ(革命)・ホテルも、ペルシアン・エンゲラーブ・ホテルにといった具合です。外貨と対外イメージのためには革命も節を曲げるようです。
イラン自身が、世界各国に向かって「自分たちのことをイランと呼ぶように」と宣言して久しいのに、まだまだ世界は東洋幻想から抜け出せず、イラン人自身もそうしたイメージを逆輸入しています。そろそろこういうオリエンタリズムからは脱却すべきなのではないかと思うのですが、現実にはまだイメージが優先されているようです。
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今日は巡礼月最大の行事、犠牲祭の日です。
ムスリムが、アッラーから授けられたものである家畜を犠牲に捧げ、その行為を通してアッラーの恩恵のありがたさを知り、アッラーを賛美する日です。そして犠牲に捧げられた肉は、貧しい人々へと配られます。
巡礼を行った人々、巡礼を行うことができなかった人々、巡礼に行ったものの巡礼中の行事を全て行うことができなかった人などが犠牲を捧げます。
この日、マッカだけでなく、世界各地で、犠牲を執り行うことのできる資力を持つムスリムが一斉に犠牲祭を行います。
犠牲として屠る動物は、牝らくだ、牝牛、牝羊、牝山羊の順に価値があるとされています。牝は子供を生むため牡よりも価値が高いとされ、また体の大きなものほど価値が大きいためこういう順番になるのだそうです。
こうした動物の頭をキブラ(マッカの方角)へ向け、「ビスミッラー(神の御名において)」と唱え、頸動脈を掻き切り、犠牲とします。血は完全に抜き取らなくてはいけません。
こうして得られた肉の三分の一は自分のもの、三分の二を貧しい人や親戚、友人への贈り物とすることが望ましいとされています。
肉のまま人々に配る場合もあれば、それを調理して配る場合もあります。こういう時期は、私のような外国人の異教徒の家にも、お裾分けとして色々な食事が回ってきたりします。
最近は、巡礼者が増え、マッカで犠牲に捧げられる動物が多くなり、サウジアラビア政府がその肉の保管に苦慮しているという話を聞きました。
犠牲祭が終わると、巡礼の儀式も全て終了です。
ちなみに、イランでは、以前にお話ししたように、生きた羊も量り売りをするのですが、大きな羊一頭で大体、90ドルくらいで買えるそうです。テヘランでは犠牲といえばほとんどが羊で、らくだや牛はあまり見られません。
らくだや牛を屠るところも見たことがありますが、体が大きい分、簡単には死なないので見ていて結構来るものがあります。羊は「あら、私の身に何が起こったのかしら?」という感じで簡単に屠られてくれるのですが。
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こちらの電話はアパートとセットになっています。日本のように固定電話の権利を持って引っ越しをするのではなく、アパートに電話回線の権利が付属しているのです。つまり、誰が入居してこようと、そのアパートに引かれた電話の番号は変わらないのです。
こうしたことから、引っ越してきてしばらくは、前の住人宛にかかってくる電話が多く、大変です。時々、逆ギレされて、「どうして引っ越し先を知らないんだ」とか色々と不快な思いをすることもあります。一度、まだ血気盛んだった頃、「あなたが本当にその人の友人なら電話番号を知っているはずでしょ!知らないってことは友人だと思われていないんじゃないの!?」と言い返してしまい、大げんかになってしまったことがありました。
こうした電話事情ですので、近所の人は大概、お互いの電話番号を知っているようです。
以前こちらで勉強していた日本人学生が、お風呂上がりに裸で部屋の中をうろうろしていたら、近所の人から電話がかかってきて、「そんな格好でうろうろしているんじゃない」と叱られたそうです。部屋のカーテンが少し開いていて、そこから部屋の中が見えていたらしいです。
私宛のいたずら電話も、私が外から帰ってくると鳴り始めるようです。
昼寝をしていてうっかり寝過ごし、目が覚めた時に暗くなっていることがあります。部屋の電気をつけた途端に電話が鳴るのです。それに出てみると「はろー、はろー、はーわーゆー」という馬鹿にした英語の(恐らく)高校生です。
このところ、ようやく、飽きたのかつまらなくなったのか数が減ってきました。
そういうつまらないことをしている時間をもっと有効に使って欲しいと思わずにはいられません。
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中東諸国とも事情はほぼ一緒でしょうが、雨期である冬の雨や雪によって一年間の水を確保しています。そのため、冬に雨雪が降るかどうかということが人々の生活を左右してきました。特に農業に従事する人にとっては一大関心事です。
イランの山間部、つまりイランのカスピ海岸沿いから東に延びるアルボルズ山脈と、イランの西部をほぼ南北に走るザグロス山脈には、豊富に雨や雪が降りますが、キャビールと呼ばれる土漠がほとんどのイラン東部は雨量も少なく、水の確保が大変です。
イランというと乾燥した砂漠の国というイメージがあると思うのですが、アルボルズとザグロス両山脈は地下水脈が豊富で、この豊富な水をペルシア湾願諸国へ輸出しています。
4、5年前に、冬にほとんど雨が降らず、干ばつとなった年がありましたが、その時も「契約があるから」と、こうした湧き水をイラン国内向けにせず、輸出し続けて国民からの不満の声が上がったことがあったことを覚えています。
テヘランに長く住む人の話によると、以前は年に何度か大雪が降ったそうです。ところが最近は暖冬続きで、雪が降ったとしてもほんの少しだけ、雨も少なくなっているとのこと。その反対に、夏に以前には感じなかった湿度を感じるようになってきたというのです。こうした気候の変化が革命後起こったことから、テヘランの人は良く、「シャー(国王)と一緒にバラキャト(恩恵)も行ってしまった」と言います。たまたま気候の変化がその時期に重なっただけなのでしょうけど、現政権を批判する人が好んで使うフレーズです。
日本でも同じですが、雨(雪)が天からの恩恵だということを乾燥地帯に住むとより一層感じます。
余談ですが、昔の話を聞いていると、今のようにガスによる暖房が普及する前は石炭ストーブを使っていたため、冬になると煙突から出るすすで黒くなった雪が降っていたそうです。今ならさしずめ、排ガスに汚染された雪でしょうか。ちょっと嫌な話です。
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ムスリムにとって神聖なはずの巡礼月にイラクでは、選挙を妨害しようと、テロリストたちがシーア派やスンニー派を問わずテロを行っているようです。ムスリムが何の罪もないムスリムを殺すことは最大の罪であるはずなのにと、暗い気持ちになるニュースです。
テロリストに言わせると、「占領軍に協力する堕落したムスリム」を殺すことは神の意にかなうことであるのだそうですが、本当にそうなのでしょうか。それならどうして警察とも軍とも関係のない一般市民を巻き添えにするのでしょうか。彼らが積極的にアメリカに協力しているというのでしょうか。
私自身、アメリカのやり方が正しいとは思っていません。しかし、テロリストたちのやり方はアメリカと同じだとも感じています。
彼らが題目として唱えるアッラーは、「全てのムスリムは兄弟である」と言い、「互いに危害を加えあってはならない」と命じているはずです。
預言者ムハンマドが最後にハッジを行った際に(西暦632年)、同行していた信徒たちに向かって『別れの説教』を行いました。イスラームの理念を簡潔に表したもので、現代でもムスリムの間で尊重されているものです。
その中でこう語られています。
「皆の者よ、私の言葉に耳を傾けよ。なぜなら私は、この年以後、再びここに集い、巡礼をなし得るか否かを知らぬ身だからである。皆の者よ、アッラーはこう仰せられている。『これ人々よ、我らは一人の男と一人の女からお前たちを創り、互いに知り合うために部族、民族となした。まことにアッラーが最も愛でられる者は、最も敬虔な者である。』アラブが非アラブに優るとか黒人が白人に、白人が黒人に優るということはない。優劣があるとすれば、それは敬神の念においてである。あらゆる人間は、土塊から創られたアーダムの裔である。そして見よ、人が誇りに思うものは、血筋、財産その他全て破棄された。カアバ神殿の管理、巡礼者たちに水を提供することを除いては。よいかクライシュ族の者どもよ、審判の日に現世の重荷を首に巻き付けて姿を現すのではないぞ。他の者たちが来世の報償を持ってアッラーの御前に立つ時に。その時私は、お前たちのために、アッラーに取りなしはしない。」
「見よ、無明時代の事柄は全て精算された。無知な時代の復讐の習慣は取りやめられねばならぬ。」
「皆の者よ、あらゆるムスリムは互いに兄弟(姉妹)である。ムスリムは全て兄弟の絆で結ばれている。お前たちの奴隷についても、自分たちが食べるのと同じ食料を与え、自分たちが身につけるものと同じ着物を与えよ。」
「私の去った後で迷いの道を歩んだり、互いに危害を加えあってはならない。預かりもののある者は、持ち主に必ずそれを返すように。」
「皆の者よ、よく聞いてこれに従うがよい。もしも手足を切り取られたエチオピア人の奴隷が長に任ぜられたとしても、彼がアッラーの書に基づいて政治を行う場合、その命令をきちんと遵守しなければならない。」
(黒田壽郎編『イスラーム辞典』より)
イスラームが強調しているのは、アッラーへの服従、全ムスリムの団結、正義、公正であるはずなのです。
クルアーンの中でも復讐の無意味さ、敵をも友とするように、正義を守れと述べられています。
「善と悪とは同じではない。だが他人に何か悪いことをされたら、もっと善いことでその悪を追い払え。そうすれば、いくら不倶戴天の仇敵だとて、まめやかな友だちのようになること疑いない」(わかりやすく章第34節)
「だが本当は、あだされてもじっと堪え、赦してやるのが誠の道というもの。」(相談章第42節)
「これ、汝ら、信徒の者、正々堂々とアッラーの前に立ち、正義の証人たれ。自分の敵とする人々を憎むあまり正義の道を踏み外してはならぬ。常に公正であれ。それこそ真の敬神に近い。アッラーを懼れまつれ。アッラーは汝らの所行一切に通暁し給う。」(食卓章第8節)
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今日は12イマーム派5代目イマーム・ムハンマド・バーゲルの殉教日です。
イベントが多い国ですね、とのご指摘を良く受けるのですが、本当に、シーア派の信仰上敬意を払われる預言者とその家族、イマームだけでも14人いて、その誕生日と殉教日があって、革命関連行事も多いですし、文学や学術関連の偉人も多い、イスラーム以前からの慣習も多いと、カレンダーに何かしらの記念日がない週がほとんどない国です。
ということで、イマーム・ムハンマド・バーゲルの殉教日なのですが、イランでは大変に影の薄いイマームであるため、どんな人物なのか、手元にあるイスラームガイドブックではちょっとよく分からないのです。
マディーナで恐らくイスラーム暦57年サファル月3日(西暦676年12月16日)に生まれ、イスラーム暦114年の今日(西暦733年1月28日)に暗殺されました。彼の墓はマディーナにあります。
イランでは、イランに古くから伝わる慣習、つまり正月や前にご紹介した冬至などや、イスラーム革命関連行事はイランの正式な暦であるイラン暦によって祝いますが、イスラーム関連行事はイスラーム暦を使っています。
以前にもお話しした通り、イスラーム暦は月の満ち欠けによって計算しますので、太陽暦である西暦やイラン暦より短く、毎年11日くらいずつずれていきます。こうしたずれが起こるため、イスラーム暦で書かれている歴史上の人物の生年月日や、事件の起こった日を西暦に換算するのは大変です。
以前は西暦とイスラーム暦を対照した表が出版されていて、これをひきながら計算していたのですが、最近では日付を入力するだけで簡単に計算してくれるソフトができて大変に便利になりました。
私も大学の先生が作ってくださった計算ソフトを使っているのですが、本当に楽になりました。文明の利器、ということばをしみじみ実感する瞬間です。
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しかし、会場の雰囲気は恐らくすごいことになっているはずですので、観戦に来られる女性は、絶対に、コートとスカーフを忘れずに入国・入場してください。もしこうした服装コードを無視した場合、どんな目に遭うか保証はできません。
サッカーの話題が出たついでに、最近聞いたサッカーのお話しをいくつか。
先日のバイト中、一緒に仕事をしたイラン人男性と、仕事の合間に何となくサッカーの話になりました。
テヘランの通りにアリー・ダーイーの名前が付けられるという話になったので、ある人が私に、「もし実現したら必ず写真を撮ってね」とか、「そのプレートにひげを書いてきて」とか言っているんだよ、と言ったところ、その人は大変に気分を害したようでした。
彼の話によると、イランではアリー・ダーイーに対する批判の方が多いのだとのこと。イランのサッカー界に対する影響力があまりに強いため、彼中心のチーム作りをせざるを得ず、そのために最近は勝てなくなっているのだと言うのです。
「彼にボールを回さない選手は代表になれないんだよ。ゴールの前に杭を立てておいて、それに向かって何十回もボールを当てれば何回かはゴールに入るだろ?彼のゴールが多いのはそういうことだよ。海外では、ひげがかっこいいとか何だとか言って人気があるかもしれないけど、イラン国内ではそうでもないんだ」
監督よりも実権があると言われているとは聞いていましたが、彼が言うほどイランの人が彼を嫌っているかどうかというと、少々疑問を感じないではいられません。
そこで、周囲のスポーツ好きの知り合いなどに聞いてみました。
彼がイランサッカー界の英雄であることは認めるけども、そろそろ、彼抜きのチーム編成を考えなくてはいけないはず、という意見が多いようです。
日本でも先日話題になったという功労者論議に似ているのかもしれません。
もう一つは、先日お話しした長髪はイスラーム的に問題なしということに関連して、サッカー選手は髪を伸ばしても構わないが結んではならないという通達が出ていたとのこと。他のイスラーム諸国ではどうなのか確かめてみたいと思ったのでした。
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まずはテヘラン大学へ行き、在学証明とビザの更新が必要である旨を明記したレターを発行してもらい、それを持って、留学生に関する業務を一手に扱っているエマーム・ホメイニー国際大学のテヘラン事務所へ。ここで、必要書類を記入して、証明写真とパスポート、ビザ代と手数料2万7千リヤールを支払っておしまい。二週間後にはビザの更新ができているはずです。
テヘラン大学からエマーム・ホメイニー国際大学のテヘラン事務所まで、乗り合いタクシーを乗り継いで1時間くらいかかります。それも、道中ほとんどが渋滞のひどいところです。車内でずっと排ガスを吸わされていたため、家に帰ってきたら頭痛でダウンです。
テヘランには世界最悪と言われている事柄がいくつかあるのですが、その一つが交通マナーです。イラン人が交通マナーを守るようになれば、渋滞の何割かは解消できるだろうと思うくらいにマナーが悪いのです。
隙間があれば突っ込む、車線は守らない、空いていれば対向車線も走る、突然車線を変更する、突然にUターンをする、絶対に道を譲らない等々、あげるときりがないくらいです。おかげで交通事故も多いのです。
今日はこうしたマナーのおかげで、乗り合いタクシーで事故に遭ってしまいました。
交差点を強引に曲がろうとして、同じように曲がろうとしていたバスの内側へ入り込み、曲がりきれずにぶつかってしまったのです。スピードが出ていなかったので良かったものの、それでも結構な衝撃でした。私が座っていた側のドアがへこんでいましたから、下手をしたらけがをしていたかもしれないと、ちょっと冷や汗が出てしまいました。
イランに来て8年、あちこち出歩いている割に事故に遭わずに済んでいるのは、実は幸運なことなのかもしれないと思った瞬間でした。
何と言っても、交通事故による死亡が死因の第二位を占めているといわれる国なのですから。
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イランでは、文化イスラーム指導省の下にあるハッジ庁(sazmane hajj)が、ハッジに関する業務を行っています。
サウジアラビアから割り当てられた人数をもとに、国内のハッジやウムラの申込者に割り当てを行い、渡航のための手続きなどを行うのです。
ハッジやウムラの当選は、申し込んでから何年もかかる人もいれば、毎年のように行っている人もいます。これは、ハッジの割り当てが公務員や聖職者に優先されていることによります。
私の知り合いは、新婚旅行にと夫の両親がハッジをプレゼントしてくれようとしたのだけど、結局3年かかったと言っていました。新婚旅行がハッジというのもどうかと思うのですが、信仰に熱心な家庭だとそういうこともあるのかもしれません。
ハッジに行くことが決まると、準備開始です。
パスポートとビザを取得し、外貨を用意しなくてはいけません。
イランでは、正月休みと夏休み、そして巡礼月の前になると外貨の値段がぐんと上がります。これは、この時期になると海外に行く人たちが一斉に、リヤールを外貨に両替するためです。以前は、対外債務返済のためにドルの流出を防ごうと、海外に持ち出すことのできる外貨は一人千ドルまでと決められていましたが、返済が済んだ最近ではこうした制限もなくなったようです。
しかしそれでも銀行で行う外貨への正規の両替は、パスポート、ビザ、往復の飛行機のチケットなどがきちんと準備できていないと許可されません。銀行で両替をしていると、時々、あの書類が足りないとか、チケットに帰国日が入っていないとか(オープンチケットなのでしょう)でもめている場面に出くわします。また、外貨の準備がないから別の支店へ行くようにと指示していることもあります。
このように、銀行は面倒だからと、町の中にある私設の両替商のところへ行く人もいるようです。ただ、この場合、レートが銀行より少し落ちる場合があります。
外貨は、以前は米ドルがほとんどでしたが、最近ではユーロが人気です。
そして、先日お話ししたような信仰上の準備を行い、イフラーム(巡礼着)を購入します。これは現地でも購入できますが、イラン国内から持って行く人もいます。
ハッジを行う時には、誰もが同じ形のイフラームを身につけなくてはいけません。これは縫い目のない白い木綿の布二枚からなるものです。巡礼月が近づくと、布地屋などに、「イフラームあります」という札が出るようになります。
こうした準備を整えて、いよいよ出発です。
テヘランの空港には、ハッジ専門のターミナルがあります。巡礼月直前になると、ハッジに出発する人とその見送りの家族でターミナル周辺は大変な混雑になります。別れの挨拶は家で済ませてきて!と思うのですが、どうしても空港まで見送りに来なくてはならないらしく、家族や親戚がぞろぞろと自動車を連ねて、あるいはミニバスを貸し切ってやって来るのです。永の別れでもあるまいしと、ついつい思ってしまうくらい、熱い抱擁と接吻が繰り返され、ようやくサウジアラビアへと出発です。
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ところが、巡礼月にハッジを行う人には、一ヶ月近くサウジアラビアに滞在する人が多くいます。
マッカやマディーナにある、預言者やイマームに関連する史跡を訪れたりするからです。
イラン人が訪れる場所の一つが、マディーナにある預言者の墓です。
本来、イスラームでは墓を飾ることや、墓参りに対して否定的です。預言者自身、晩年の愛妻アーイシャの家の敷地内に葬られたとされているだけで、死後、墓廟が作られたという記録はありません。現在預言者の墓とされているのは、土まんじゅうに石が置かれただけの粗末なもので、本当に預言者のものかどうかも定かではありません。
それから、やはりマディーナにあるイマームたちの墓(四代目、五代目、六代目)へ詣でること。
マディーナにムスリムが最初に作ったとされるマスジドゥル・ハラームを訪れること。
このマスジドを建設した時には、預言者自ら煉瓦を運んだと伝えられています。もちろん現在の建物は新しいものです。
それから、マスジドゥル・キブライン(二つのキブラのモスク)を訪れること。
このマスジドで預言者たちが礼拝を行っている最中に預言が下り、礼拝を行う方向がエルサレムからマッカへと変更されたということです。このため、このマスジドには、エルサレムの方向とマッカの方向の二つのキブラ(礼拝の方向を示す目印)が残されているそうです。
預言者が、敵対する多神教徒の軍隊と戦ったウフドやハンダクの戦いの地を訪れること。
などがあげられます。
シーア派は、墓参りの宗教ではと思うくらい墓参りが行われます。近親者や親しい人の墓参りにはよく行きますし、イマームをはじめとする聖者廟詣でも当たり前に行われます。
これらの行為はスンニー派では否定されています。人は死んだら神の許へ行くだけであり、現世に残った人が死者のためにできることはない、まして死者が生きている人のために何かしてやることなどあり得ないと考えているからです。そのため、シーア派の人たちが、墓参りに行って死者のためにコーランの句を唱えたりして一種の追善供養を行うことを否定していますし、イマームをはじめとする聖者たちが人々の願いを叶えたり、神との仲介役を務めるということも認めません。
スンニー派の中でも最も厳格な戒律を持つサウジアラビアで、イランのシーア派信徒たちは非常に微妙な立場にあります。シーア派的習慣によってふるまうことによって、サウジアラビアの人々と衝突する可能性があるからです。
そのため、ハッジ指南書には、預言者やイマームたちの墓参りに行っても、シーア派に敵対する人たちに口実を与えないよう、普段イラン国内で行うような行動はしないようにと注意が書かれています。
例えば、預言者の墓やイマームの墓に触れたりキスをして願いことをすることや、その脇で礼拝を行ったり、霊力(バラカ)を分けてもらうために墓に寄り添って眠ったりすること。墓にろうそくを供えること。墓の周囲の土や石を持って帰ること(霊力がこもっていると考えられている)。などがあげられています。
これを禁じられるというのはシーア派のイラン人にとって苦痛らしく、帰国してからこうした禁止事項に対して不満を述べる人が沢山います。
カアバ神殿へのハッジを行ったことに対する感動よりも先に、こうした不満を聞かされると彼らのハッジの目的が何なのかちょっと不思議に思うのです。
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これを聞いた時は正直言って「どうして今?」と不思議でした。
彼女は海外では人権活動家として紹介されているそうですが、イラン国内での評価は違っています。女性と子供の人権のために活動しているそうですが、あくまで弁護士としての活動に留まっているように見えるからです。どの政党からも等しく距離を置き、自分の立場が危うくなるような活動や発言は行いませんし、彼女と同じような活動をしている人たちは他にも沢山います。彼女がノーベル平和賞を受賞するまで彼女の名前を知らなかったイラン人の方が多かったはずです。
あくまで平和に権利拡大のための弁護士活動を続けている彼女が、政府内の保守的な勢力とぶつかるとは思えないのです。
春に行われる予定の大統領選挙をにらんでか、インターネットで閲覧できないサイトが増えました。私のこのブログも自分でアクセスできないことがあったりします。選挙が近づくと保守派による言論統制が強まるのはいつものことですが、今回は随分と早くから活動を始めているという印象です。(それにしても「ノロウィルス」に関するニュースのページが開けなかったのはどういう理由からなのでしょうか?)
シーリーン・エバーディーの召還も、恐らくこうした保守派による選挙コントロールの一環なのでしょう。彼女を改革派が利用しないように、彼女と改革系の各派に釘を刺しておこうということではないかと思われます。というか、それしか思い当たりません。
彼女が平和賞を受賞した時、一番困惑したのは彼女自身だったと思います。受賞当時のインタビューなどを見ると、イラン政府に対して気を遣った発言が非常に目につきます。「この賞は大統領こそふさわしかった」と彼女が発言していますが、ハータミー大統領自身もそう思っていたらしく、悔し紛れに「平和賞なんて大した賞ではない」という発言をしています。『文明間の対話』を国連で提唱した大統領としては、彼女の受賞によりプライドがいたく傷つけられたようです。今回のことは、まさかその腹いせということはないと思いますが。
彼女は革命前、20代にして最高裁判事という地位を得ていました。それが革命後、イスラーム政権により「女性は裁判官になれない」とされ、その地位を追われました。彼女はイスラーム法により女性が差別されることに対して疑問を抱き、自分の地位回復のために勉強会などの活動を始めました。これが彼女の女性の権利拡大に関する活動のはじまりでした。こうした活動の中で逮捕、投獄されたこともあったそうですが、弁護士としての資格を取り上げられてはいません。政治的な活動とは距離を置いていたからでしょう。
海外で行われるフェミニズムなどの大会で彼女の名前をよく見たと私の友人が教えてくれましたが、彼女のイラン国内での活動は地味なものです。
彼女はクルド人なのですが、クルド人活動家の弁護などは引き受けません。また、政治犯が収容されているエヴィーン刑務所で政治犯の解放を求めることもありません。政治的に派手な活動をして名前をあげるのではなく、弁護士としてできる範囲内で着実にという彼女のやり方は、イランのような警察国家においては有効なのかもしれません。力による反対は力による弾圧を生むというのは、イランだけでなくどんな国においても見られることですから。
シーリーン・エバーディーは海外の人権大会にも出席し、国際的にも名前を知られていたことからノーベル平和賞を受賞しましたが、彼女と同じように女性の権利拡大のための活動をしている女性たちがイラン国内に数多くいることを最後に付け加えておきます。
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先生の話した内容をひたすら暗記して、それを美文で書くという試験に慣れていなかった私とヨーロッパ出身の学生は、初めの頃は解答用紙を埋めるのに苦労をしたものでした。
一番大変だったのが、「イスラーム史」の試験でした。
出題はただ一つ。「預言者ムハンマドの生涯を書け」。
この時ほど途方に暮れたことはありませんでした。とりあえず、記憶にある全ての事柄を書きますが、それでも預言者の生まれた時から死まで解答用紙二枚くらいにしかなりません。ところが周囲の学生は解答用紙を何枚ももらい、ひたすら書き続けています。後で聞いたら最高で7枚目まで書いた学生がいたそうです。
私とボスニア人の留学生は早々に諦めて、自分の書いた分だけを提出して、さっさと教室を後にしたのでした。
二人とも合格点をもらえたので一安心でした。
この逆が、「イラン文化史」の試験でした。
この先生は、「答えは簡単に書きなさい。要点だけ書くのよ。余計なことを長く書いても点数を上げないわよ」と試験前に何度も強調していました。
この試験は安心して受けることができました。回答を沢山書かなければならないかもしれないというプレッシャーがなかったからです。要点を簡潔に書いて提出し、合格点をもらえましたが、大半の学生は先生の指示を無視して、無駄に長い回答を書いて減点されていたそうです。
美しく長い文章を書くことが文章作法なのだと思い知らされるような試験でした。
もっとも、長々と文章を書かなくとも、必要なことが書かれていれば点数をもらえると分かってからは、大分気楽に試験が受けられるようにはなりましたけど。
試験ではないのですが、「ペルシア語作文」の授業では毎時間レポートを提出させられました。テーマは自由で、A4の用紙1〜2枚だったのですが、イランに来て初めてペルシア語の作文を書く私には大変な作業でした。壮大なテーマを難しい言葉で書くことなどできないので、このブログで書いているようなことを簡単に書いて毎回提出していたのですが、先生に、「あなたのペルシア語はめちゃくちゃなんだけど、テーマはおもしろいわ」と誉められたのかけなされたのか分からない評価を受けたものでした。
論文をペルシア語で書いている今も、ネイティブチェックをしてくれている人にはひどい文章だの何だのと言われています。何年経っても外国語を書く、というのは難しいものだとため息をつく毎日です。
